ホートンはウェストミンスター神学校カリフォルニア校の教授、つまり象牙の塔の人だ。でも彼の本は、不思議なくらい現実から浮いていない。いつも現実をまっすぐ見据えたうえで、鋭い洞察で福音的な道を示してくれる。だからホートンの文章は、読むたびに大きな気づきと響きを残していく。
弱い者のところへ訪ねて来られる主について語るこの本も、やっぱり同じだった。

表紙の角はもうすっかり傷んでいて、何度もかばんに突っ込んで持ち歩いたのが分かる状態になっている。中央の帯には小さく「previously published as Too Good to Be True」とある。2006年に『Too Good to Be True』というタイトルで出た本が、2010年に今のタイトルで出し直されたものだ。全208ページ。十字架と空の墓、つまり苦難と復活という二つの軸で組み立てられている。
タイトルの印象より、ずっと鋭い
誰だって自分の弱さから抜け出したいし、神がそこから抜け出させてくださることを願う。でも神は、私たちの考えたとおりにも働かれるし、まったく違うようにも働かれる。それは神がおられないということではなくて、神が主人であるということだ。
タイトルだけ見ると、弱っている人をやさしくなでる静かな黙想集のように見える。でも本の語り口は思ったより鋭い。ホートンはまず、なぜ私たちはこんなにも簡単に苦しみに崩れてしまうのかを問う。苦しみが強すぎるからだけではない。痛みのない人生こそが正常だと、長いあいだ訓練されてきたからだ。広告はもっといい物を手に入れれば満足できると言い、自己啓発書は正しい態度さえ持てば人生をコントロールできると約束する。教会でさえ、イエスを健康と成功と幸福を提供する商品のように紹介してしまうことがある。
そういう信じ方をしたまま、病気や失職、うつ、関係の破綻にぶつかると、苦しみは二倍になる。つらいだけでも大変なのに、「自分の信仰が足りないのか」「神に見捨てられたのか」という霊的な罪責感まで背負い込むことになる。
「敗者たちのための良い知らせ」
第二章のタイトルは、そのまま Good News for Losers(敗者たちのための良い知らせ)だ。

このページには自分でずいぶん線を引いていた。栄光、力、快適さ、自律、健康、富を求める欲求が、渇望と幻滅の悪循環を生む。そしてそれをなだめるための産業——セラピスト、エクササイズ、スタイル、自尊心の指導者、そして教会——まで生まれる、という箇所だ。市場はいつも自分を幸せにしてくれる何かを持っている、と簡単に信じ込まされているから、私たちは簡単に失望する。
下線を引いたのはこの一文だった。
C・S・ルイスが指摘したように、問題は私たちの欲望が強すぎることではなく(ストア主義ならそう言うだろうが)、弱すぎることにある。
ロックフェラーが「いくらあれば幸せか」と聞かれて「もう少し」と答えた話も、かつて憧れられたスターが今はハリウッドの老人ホームで思い出だけを抱えているという話も、その流れで出てくる。地上の偉大な人たちも、私たちと同じように片足を墓に置いて生きている。悲観論ではなく、正気だ、とホートンは書く。
「福音は敗者たちのための良い知らせだ」という言い方は、最初かなり乱暴に聞こえる。でも人を侮辱しようとしているわけではない。神の前では、誰も自分の能力や敬虔さを掲げて勝者になることはできない、という意味だ。福音は成功した人が自分の人生を完成させる最後の飾りではない。もう自分で自分を救えないと認めた人に、外から届いてくる知らせだ。
弱くて優しい神も、強くて冷たい神も、偶像だ
第四章は「Is Your God Big Enough?(あなたの神は十分に大きいか)」。

ここでホートンははっきり書く。私たちは二つの偶像を同時に捨てなければならない。愛はあるが弱い神という偶像と、強いが恵みのない神という偶像だ。どちらも、悪と抑圧と暴力と死を前にした現代人の心をつかむには小さすぎるし、そもそも聖書の神ではない。
「私たちのために神が存在するのではなく、神のために私たちが存在する」。この一文は、現代人の信仰の癖を居心地悪くつつく。私も神を信じながら、その方を自分の目標を叶えてくれる後援者にしていたことが何度もあった。物事がうまく回れば神は善いと言い、計画が狂えばその善さを疑った。結局、神の価値を自分の満足度で採点していたわけだ。
弱さは、神が力を現す場所
第一章「When Tragedy Strikes」に、この本でいちばん線が多く残ったページがある。

ルターの名前を丸で囲んで、その下の一文に線を引いてある。十字架の神学者であること——それはすべてのキリスト者の一般的な召命だ——には三つのものが要る。oratio(祈り)、meditatio(学び)、そして tentatio(試練)。
信仰を「穏やかで心地よい気分」に縮めてしまうのは、とても簡単だ。「とりあえず祈ってみたら」という、ときどき軽すぎる助言。逆に、信仰を単なる同意、試験で正解を出すだけの学問的な作業にしてしまうのも簡単だ。聖書を十分に暗記して、しかるべきときに引用できれば大丈夫。神学さえ正しければ、あとは全部うまくいく。けれど試練がなければ、信仰は約束の神をつかみに行くほどには目覚めない、とホートンは言う。
ここを読んで、思わず余白に書き込んでしまった。

同じページの後半で、カルヴァンがサドレトに宛てた手紙が出てくる。この高位聖職者にいちばん必要だったのは、良心の危機だった——自分の義がすべてキリストのものであって、少しも自分のものではないと理解するために。神の恵みに十分に協力すれば最終的な無罪判決に至れる、という自信を揺さぶられる必要があった、という話だ。
そしてすぐあとに、「リサと私も信仰を試された」という一文が来る。ホートンは自分の家族が経験した病と死、妻とともに通った流産の痛みにも触れる。だから彼の議論は、机の上で作った苦難の図式にとどまらない。重い病でほとんど体を動かせなかった父の最後の時間を思い出す箇所では、尊厳が生産性や自立に依存していないことがはっきりしてくる。何も成し遂げられず、誰かの助けなしには生きられないときにも、人は神のかたちを持つ存在だ。弱さは人間性を減らすのではなく、人間がもともと依存的な存在だったことを明らかにする。
説明ではなく、勝利
第七章は「Out of the Whirlwind(つむじ風の中から)」。ヨブ記が正面から扱われる。

ヨブと友人たちの説教がすべて終わったあと、神がついに自ら語り出す。「知識もなく言葉を重ねて、わたしの計画を暗くするこの者は誰か。男らしく腰に帯をせよ。わたしが問う、あなたが答えよ」。神は自分の知恵と力を並べ立て、ヨブと善意の友人たちの口をふさぐ。彼らは全員、自分の経験と常識をもとに議論していた。出来事の表面から神の心を読み取れる、という前提で動いていた。
このページに、こんな一文がある。苦しみが自分や愛する人を襲うとき、私たちはどれほど簡単にこれをやろうとするだろう。 すぐさま、その背後にある目的を合理化しようと飛び出していく。でも神はこの領域で解読されることを拒まれるし、その計画は人間には隠されている。
苦しみの理由を問う人に「すべてには意味がある」と言うのは、ときに簡単すぎるし残酷だ。聖書も個々の悲劇の理由を教えてはくれない。代わりに、神が苦しみの観察者にとどまらずその真ん中に入って来られたこと、そして復活によって死の最終的な権勢を打ち砕かれたことを証言する。ホートンにとってキリスト教の希望は、苦難の秘密をすべて解読することにあるのではない。まだ理解できないまま、十字架と復活のゆえに結末を信頼することにある。
そして、この本でいちばん美しいと思った一文はこれだ。
私たちは高慢によって神へ登ろうとするが、神は謙遜によって私たちへ降りてこられる。
苦難に耐えられるほど強くなって神に到達するのがキリスト教ではない。十字架は、神が人間の弱さと恥、見捨てられることと死の中へ降りてこられた出来事だ。だから弱さは、必ず取り除かなければならない信仰の欠陥ではない。自己救済の幻想を手放して、低くなられたキリストに出会う場所になりうる。
引っかかったところ
いちばん印象深かったのは、彼が悲しみを信仰の失敗として扱わないところだ。今日の教会の歌と証しには勝利と感謝があふれているのに、嘆きが留まれる場所は意外に狭い。落ち込んでいる人も、喪に服している人も、あまりに早く「それでも感謝しなきゃ」という結論へ押し流される。でも詩篇には「私の魂は慰められることを拒む」という声もある。聖書の信仰は、涙を消してからでないと神のもとへ行けないとは言わない。むしろ疑いと怒りと沈黙まで、神の前に持って行くことを許している。
それでも読みながら疑問は残った。ホートンは神の摂理と主権を強く強調する。すべてのことが善なる神の手を通過するという告白は大きな慰めになるけれど、実際の悲劇の前では慎重に語らなければならない。虐待や戦争、構造的な貧困を経験している人に摂理から先に説明すれば、悪に抵抗すべき責任をぼかしかねない。苦難に耐える神学は必要だが、防げる苦難を防ぐ倫理も必要だ。十字架は被害者に耐え続けろと要求する道具ではなく、暴力的な権勢を暴いて裁く出来事でもある。
もうひとつ。「治療ではなく福音が必要だ」という形の対比は、心理療法や医学的な助けを不要なもののように誤解させる余地がある。もちろんホートンの核心は、福音を自己啓発プログラムに作り替えるのはやめようというところにある。でもうつには相談と薬が必要なことがあるし、喪失には喪の時間と共同体の細やかなケアが必要だ。福音と治療は必ずしも競合しない。治療が人間のすべての問題を救うことはできないけれど、神は医療やカウンセリングを通しても、苦しむ人を支えてくださる。
読んだあとで変わったこと
この本を読んでから、つらいことが起きたときに「この状況を早く取り除いてください」とだけ祈る癖を少し変えてみた。解決を求めながら、解決される前の自分を神が見捨てていないという事実も一緒に唱えるようにした。
誰かが「しんどい」と言うときは、急いで意味を作ってあげようとしないようにした。「それを通してもっと強くなれるよ」より、「今すごく痛いよね」のほうが先に必要だと学んだ。苦しんでいる人にいちばん必要なのは、解説者ではなくそばにいる証人であることが多い。
C・S・ルイスの『痛みの問題』と比べると違いがはっきりする。ルイスが善なる神と痛みがどう共存しうるかを哲学的に弁護するとすれば、ホートンは十字架と復活という福音の出来事の中に、苦難を耐える場所を用意する。フィリップ・ヤンシーの『神に失望したとき』が疑う人の感情と問いのそばにより長く留まるとすれば、ホートンは客観的な約束と教理で読者をつかむ。ヤンシーは傷のそばに座る友人のようで、ホートンは嵐の中でも崩れない土台を確認し直す神学者に近い。
『A Place for Weakness』は、突然の苦難に遭ってから慌てて読むより、比較的穏やかなうちに読んでおくべき本だと思う。苦しみが襲ってきたあとでは、新しい神学を学ぶ気力さえ残っていないかもしれないからだ。信じていればすべてうまくいくという期待に疲れた人、成功と幸福を信仰のものさしにしてきた人、苦しんでいる教会の仲間をどう助ければいいか悩んでいる牧師に、特に勧めたい。ただし深い喪の最中にある人には、正解のように差し出すのではなく、その人の速度に合わせて一緒に読むべきだと思う。
この本が語る弱さの場所は、敗者が追放される場所ではない。十字架につけられた神が、すでに先に来ておられる場所だ。キリスト教の希望は、痛まない人になることにあるのではない。痛んでも見捨てられておらず、死んでも物語が終わらないという約束にある。ホートンは私たちを強い人間に包装したりしない。代わりに、弱いままでもつかまえていてもらえるという、ずっと現実的で堅い慰めを差し出してくれる。
世の中で休みもなく揉まれて生きている、疲れた私たちにこそ必要な本だ。
