ジョン・オーウェンの『Apostasy from the Gospel』を手に取ったとき、まず引っかかったのは「背教」という言葉だった。
イエスを公然と否定する。教会を去り、別の宗教へ移る。そんな大きな決断を思い浮かべて、自分の日常からは少し遠い話だと感じていた。
ところが、読み進めるうちに、その距離がなくなっていった。
福音の言葉は知っている。神学の本も読む。礼拝にも慣れている。それなのに、実際の生活ではキリストに頼らず、自分の力や判断だけで何とかしようとする。オーウェンの指摘を読んでいると、そういう自分が何度も思い当たった。

手元にあるのは、R・J・K・ローが短くまとめ、読みやすくした英語版だ。原著は1676年に刊行されたもので、書誌欄の年も原著の刊行年を記している。
17世紀のピューリタン神学者が書いた背教論。その響きから想像していた以上に、問われることは身近だった。
一度は大切に受け止めた福音が、どうして自分にとって遠いものになってしまうのか。この問いが、読み終えるまで離れなかった。
本書はヘブル人への手紙6章4〜6節をめぐる議論から始まり、無知、高慢、怠慢、世俗への執着へと話を進めていく。目次には教理だけでなく、戒め、教会の務め、礼拝からの離反も並ぶ。扱われているのは、信仰を捨てると宣言する瞬間だけではない。その前に、心や教会の中で何が起きているかという問題だ。

冒頭には、罪を犯した人を教会がどう受け入れるかをめぐる、初期教会の議論が紹介されている。赦しと悔い改めをどう考えるのか。教会の規律を重んじることが、いつ人を回復への道から締め出すことになるのか。
ここを読んで、本書には厳しい警告とともに、罪を犯した人が立ち返る道をどう理解するかという問いもあるのだと感じた。

私がまず立ち止まったのは、聖書について知っていることと、その言葉によって生かされていることの違いだった。
8ページでは、勉強によって得られる聖書の知識と、聖霊による照らしが区別される。さらにオーウェンは、霊的な事柄に心を動かされた経験さえ、そのまま救いの確かな証拠とはできないと論じていく。
これは、知識を軽んじる話ではない。自分が持っている知識や経験を、どこまで安心の根拠にしているかが問われている。
私には、信仰生活が長くなったこと自体を、いつの間にか安全装置のように感じてしまうところがある。聖書の話はひと通り知っている。教理の言葉もわかる。だから、自分はそう簡単には揺らがないだろう、と。
でも、十字架の意味を説明できることと、今日もその赦しを必要としていることは、同じではない。
恵みについて話しながら、人からどう評価されるかに心を奪われることがある。神の主権を信じると言いながら、予定が崩れた途端、すべてを自分で動かそうとすることもある。知っている言葉と、実際に頼っているもの。その隔たりを見せられるのが、私にはいちばん痛かった。

13ページと19ページで繰り返される「味わう」という言葉も、簡単には読み流せなかった。
オーウェンは、福音のよさに触れ、喜びを覚えることがあり得ると説明する。ただし、その経験と、みことばを深く受け入れて根を下ろすことは区別している。
13ページには、聖霊によってもたらされた福音のすばらしさを経験しながら、その恵みを軽んじ、以前のものに戻ろうとする危険が描かれている。よいものだとわかったはずなのに、そこにとどまろうとしない。読んでいて、他人の話とは思えなかった。

19ページでは、説教を喜んで聞く人や、みことばを喜んで受け取る石地のような人が取り上げられる。聞いてうれしかった、心が動いた。それでも、苦しみの中で根の浅さが明らかになることがある。
ここを読むと、「最近、感動がないから危ない。もっと感動しなければ」と片づけることもできなくなる。感情の強さだけでは測れない、と本書そのものが語っているからだ。
私が考えさせられたのは、聞いた言葉をその後どう扱っているかだった。よい説教だったと満足して終わるのか。その言葉が、自分の判断やふるまいに触れることを受け入れるのか。
読後の私の言葉でまとめるなら、真理は理解するだけでなく、愛し、信頼して生きるものなのだと思う。

高慢、怠慢、世俗への執着を扱う第6章は、その問題をさらに身近なところへ連れてくる。
78ページでオーウェンが描くのは、自分で自分を導き、善悪や真偽の最終的な基準になろうとする人間の姿だ。救いに必要なものまで自分の内にあると考える態度と、神の恵みによってしか立てないという理解が向かい合っている。
私はここを読みながら、高慢は自信に満ちた大げさな言葉にだけ現れるわけではないと思った。
困ったときも、まず自分で何とかしようとする。うまくいけば安心し、失敗すれば、自分の価値まで失われたように感じる。その繰り返しの中で、神に頼ることは後回しになっていく。
信仰の中心も、そんなふうに少しずつ移ってしまうのかもしれない。イエスの名は口にしているのに、心の安定を支えているのは成功やお金、人からの評価になっている。教会生活に大きな変化がなくても、何をいちばん頼りにしているかは変わり得る。

オーウェンの罪を扱うほかの著作を思い出したのも、このあたりだった。
『罪を殺すこと』が、信者の内側で働き続ける罪を追っていく本だとすれば、この本では、それを放っておいた先に何が起きるかを見せられるように感じる。罪は一つひとつの行動で終わらず、何を愛し、何に従うかという心の向きに関わっている。
一方で、読みながら引っかかったこともある。
祈りが乾く時期や、聖書を読んでも心が動かない日まで、背教の始まりとして扱ってよいのだろうか。そう読んでしまうと、弱っている人ほど、自分を追い詰めることにならないだろうか。
私にとって、この疑問を考えるうえで大切だったのが3ページの言葉だった。
そこでは、ヘブル書の警告を読んで、自分はもう取り返しがつかないと思い込む人のことが述べられる。そのうえで、この箇所は、罪を悔い改め、神の憐れみに身を委ねようとする人を妨げるものではない、と説明されている。
写真を見返すと、その段落には下線があり、「誰も」を意味する語が丸で囲まれている。今回の読書で忘れたくないのは、まさにここだ。

警告を真剣に受け止めることと、毎日の心の状態から自分の救いを判定し続けることは、分けて考えたい。
神が遠く感じられる日もある。祈る言葉が出てこないこともある。その状態だけで、自分はもう福音から離れてしまったと結論づける必要はない。戻りたいと思っている人に、本書は戻る道がないとは言っていない。
ここでは、オーウェンが立つ改革派の信仰理解も大切になる。信者が最後まで保たれる根拠は、その人の意志の強さではなく、神が守り、支えてくださる恵みにある。
だから私は、読みながら自分に向ける問いを少し変えた。
「私は最後まで耐えられるだろうか」と先の自分を測るより、「今日、私は何に頼っているだろうか」と考えるようになった。この問いのほうが、自分の生活に届いた。
実際に変えてみたことも、一つある。
聖書を読むとき、量を進めることより、一節でも読み流さずに立ち止まることを意識した。知っている言葉が出てきたら、そこで終わらせずに考える。
「私はこれを本当に信じているだろうか」
そして、もう少し踏み込んで、「この言葉を愛しているだろうか」と。
たとえば、キリストの義によって神に受け入れられるという教えは知っている。けれど、失敗したときにも、その恵みに頼れるだろうか。自分の実績を集め直して安心しようとせず、キリストのゆえに神の前に出られると信じられるだろうか。
教理が自分の生活に触れるのは、こういうところなのだと思う。説明できるかどうかでは見えてこなかった、自分の頼りなさが見える。同時に、知っていたはずの恵みが、必要なものとして近づいてくる。
この本を読みながら、マイケル・ホートンの『キリストなきキリスト教』も思い出した。イエスの名が残っていても、日々の関心は、自分の願いをどうかなえるかでいっぱいになる。その問題意識が、私の中ではオーウェンの指摘と重なった。
デイヴィッド・ウェルズの『神学の喪失』も、あわせて読み返したくなった。現代の文化の中で、教会が何を大切にするようになったのか。その問いを考えるとき、オーウェンは、自分自身の心にある欲望や怠慢を見落とさせてくれない。
ただ、ほかの本とのつながり以上に残ったのは、もっと個人的なことだった。
私は、信仰生活にどこか「自動で続いていくもの」という感覚を持っていたのだと思う。これまで読んできた本や、聞いてきた説教、恵みを覚えた経験が積み重なっていれば、この先も大丈夫だろう、と。
それらは大切なものだ。でも、過去の経験が今日の祈りを代わりに祈ってくれるわけではない。昨日受け取った恵みを覚えていることと、今日も神に助けを求めることは、どちらも必要なのだ。
オーウェンを読んで私が戻されたのは、聖書を開き、祈り、礼拝し、聞いた言葉に従うという、いつもの営みだった。特別な体験を探しに行くより、そこで与えられている恵みを軽く扱わないこと。その地味さが、かえって心に残った。
『Apostasy from the Gospel』は、気楽に読める本ではない。自分には関係のない人の問題として読もうとすると、すぐに自分のところへ引き戻される。
それでも、読み終えたあとに残ったのは、背教への恐れだけではなかった。福音が、慣れた言葉になってしまっていたことへの気づきと、もう一度そのよさを知りたいという思いだった。
聖書や神学に親しんできた人ほど、この本に足を止められるところがあると思う。私自身、知らなかったことを学んだ以上に、知っているつもりだったことを問い直された。
今も聖書を開くとき、ときどきあの問いを思い出す。
私は今日も、福音をよい知らせとして受け取っているだろうか。
