神学

O・パルマー・ロバートソン『契約のキリスト』書評|複数の契約は、すべてキリストへ向かう

パルマー・ロバートソン『The Christ of the Covenants』を読んだ記録。契約神学の基本から、聖書の構造まで—なぜ旧約と新約は一つの物語なのか、すべての契約がキリストに向かうのか、そしてそれが私たちの信仰にどう影響するのかについて。

modupress 約9分で読めます
O・パルマー・ロバートソン『THE CHRIST OF THE COVENANTS』の表紙。上部は星の見える濃紺の夜空、下部は砂丘の広がる砂漠へとグラデーションでつながり、クリーム色の筆記体で「Christ」、下部に著者名 O. PALMER ROBERTSON が置かれている

書籍データ

『The Christ of the Covenants』

著者
O. Palmer Robertson(O・パルマー・ロバートソン)
出版社
P&R Publishing
刊行年
1980年

この記事の要点

  • — 契約は『血の結束、主権的に設定されたもの』。重要なのは『主権的』という言葉だ。
  • — 複数の契約—ノア、アブラハム、モーセ、ダビデ、新しい契約—はすべてキリストへ向かっている。
  • — 救いは常に神の側から始まる。神と人間が対等な立場で交渉することはない。
  • — 契約の目的は規則を守らせることではなく、神と民が互いに属する関係を作ることだ。
  • — 創造契約の視点から見ると、労働も家族も文化も、救いから除外されない。
  • — 真の安心は、私がどれほど神にしがみついているかではなく、神がどれほど確実に自分の契約を守っているかにかかっている。

最近、ディスペンセーション主義の神学がまた盛り返しているようだ。聖書をどの枠組みから解釈するべきか、明確な視座を持たない時代でもある。改革派神学の先達たちは、契約神学を通して聖書を一貫性をもって解釈した。そしてそのなかで、神の驚くべき恵みを発見したのだ。だからこそ、この時代に契約神学への理解が必要なのである。

パルマー・ロバートソンの『契約のキリスト』は、契約神学の最良の要約である。本棚から久しぶりに引き出して読んでみた。

O・パルマー・ロバートソン『THE CHRIST OF THE COVENANTS』の表紙。上部は星の見える濃紺の夜空、下部は砂丘の広がる砂漠へとグラデーションでつながり、クリーム色の筆記体で「Christ」、下部に著者名 O. PALMER ROBERTSON が置かれている

O・パルマー・ロバートソンの『The Christ of the Covenants』は、1980年にP&Rから出版された契約神学の代表的な古典だ。正確なタイトルは複数形のThe Christ of the Covenantsである。タイトルからして著者の考え方が表れている。聖書にはノアの契約、アブラハムの契約、モーセの契約、ダビデの契約、新しい契約といった複数の契約が登場するが、それらは互いに独立したものではない。すべて同じ方向に動き、ついにはキリストにおいて完成されるというのが、この本の中心主張だ。ロバートソンは創造から始まり、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデを経てキリストに至る救済史の流れを、一つの契約的歴史として読む。

契約神学を初めて学んだとき、正直なところ、少し人為的な感じを覚えたことがある。聖書には確かに複数の契約が登場するが、それを「行為契約」と「恵みの契約」という大きな二つの枠に押し込むのが、本当に聖書そのものから自然に出てくるものなのか、疑問を感じた。特に創世記2章には「契約」という言葉さえ出ていない。神学者たちが聖書を整理するために後の世に作った体系ではないのか、そう思ったのだ。

しかしロバートソンの本は、この疑問にかなり説得力をもって答えてくれる。

彼が契約を定義した有名な一文がある。

“A covenant is a bond in blood sovereignly administered.”

「契約は、主権的に設定された血の結束である」

この一文が本全体を牽引していく。

ここで私は、日常でいう「契約」と、聖書が語る「契約」の違いについて改めて考えさせられた。契約というと、私たちは互いに条件を提示し、交渉する関係を思い浮かべる。私が金銭を支払い、相手方が物を提供する。条件が合わなければ契約しなければいい。

しかし神と人間の契約は異なる。

アブラハムが神と交渉して契約の条件を決めたのではない。神がアブラハムを召したのだ。ノアもまた、神に先んじて契約を提案したのではない。神が始め、神が規定される。

だからロバートソンの定義において、私が最も重要と感じた言葉は、実は「血」よりもsovereignly、つまり「主権的に」だったのだ。

救いは常に神の側から始まる。

この事実を正しく受け入れると、信仰の空気そのものが変わる。神と私が、ある程度対等な立場で取引しているのではないということを認めるようになるからだ。

同時に、契約は冷たく法的な関係だけを意味しない。「結束」であり、関係なのだ。神が何度も「私はあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となるだろう」と語られるのも、ここに理由がある。契約の目的は、単に規則を守らせることではなく、神と民が互いに属する関係を作ることにある。

そしてその関係には、生命と死がかかっている。

創世記15章の契約の場面を描いた書の一部。割かれた動物と火のしるしについて説明されている

ロバートソンは創世記15章で、動物が二つに割かれ、その間を神の臨在を象徴する炎が通る場面を重視している。古代の契約締結において、これは一種の**「死への誓約」**、つまり死をも賭けた誓いを象徴している。

ここで突然、十字架が近づいてくる。

以前は、創世記15章の割かれた動物とゴルゴタの十字架をこのように直接つなぎ合わせて考えることができなかった。しかし契約が生命と死がかかった結束であるなら、人間の契約破棄は結局のところ死を要求するのだ。

問題は、人間が契約を何度も破ってきたということだ。

契約の性質についての神学的解説。血の流出と赦しの関係が説かれている

アダムが失敗した。

イスラエルが失敗した。

王たちが失敗した。

そして私も失敗する。

しかし福音の驚くべきところは、契約を破った人間が受けるべき呪いを、契約を完全に守ったキリストが身代わりに受けたということにある。

だから、この本のもう一つの重要な表現である**「血を流さなければ赦しもない」**という言葉が、単なるいけにえの制度の説明に終わらないのだ。

結局のところ、契約の血は十字架の血へと向かっていく。

この地点で、本のタイトルが理解され始めた。

なぜ「契約についての本」ではなく『契約のキリスト』なのか。

契約の構造を示した図。アダムからノア、アブラハム、モーセ、ダビデを経て、新しい契約の現実へと向かう流れが描かれている

ロバートソンはノアの契約を保存の契約、アブラハムの契約を約束の契約、モーセの契約を律法の契約、ダビデの契約を王国の契約と説明し、最後にキリストを**「完成の契約」**として提示している。各々の契約は独立した救いの計画ではなく、前のものを受け継いで発展させながらキリストへと前進していく。

この観点から聖書を読むと、聖書という書物が違って見えた。

旧約聖書はイエスが登場する前の長い前置きではなかった。

ノアに与えられた保存の約束も、アブラハムに与えられた土地と子孫の約束も、モーセを通して与えられた律法も、ダビデに与えられた王権も、すべてが救済史の一筋の中にあったのだ。

特にアブラハムに「あなたの子孫によってあらゆる民族が祝福を受けるだろう」と与えられた約束がダビデの王権と結びつき、それが最終的にキリストに集中していく様を追いながら読むと、聖書66巻がなぜ一つの書だと言えるのか、少しずつ見えてくるようになる。

この部分では、ゲルハルダス・ヴォス(Geerhardus Vos)の聖書神学とも似た感触を受けた。組織神学のように教義を主題別に切り分けて説明するというより、神が歴史のうちで啓示をどのように段階的に展開されたのかを追いかけるという点においてだ。

同時に、ロバートソンはディスペンセーション主義と、かなりはっきり距離を置いている。

本には「聖書の構造を決めるのは契約なのか、それともディスペンセーション(時代区分)なのか」と問う章があるほどだ。彼はイスラエルと教会を互いに異なる二つの救いプログラムのように分離する解釈に批判的であり、神の救済計画の連続性を強調している。

この部分で私は契約神学の強みを強く感じた。

旧約の神と新約の神が異なるのではなく、旧約の民と新約の聖徒が全く異なるやり方で救われるのでもない。

いつも恵みであり、いつも信仰だ。

モーセの律法の下でも、律法を完璧に守ることで救われるという別個の福音が存在したのではないというロバートソンの説明は、特に重要だ。律法は約束から分離されて与えられた独立した救いの道ではなかったのだ。

しかし読みながら、一つ引っかかった部分もある。

ロバートソンは伝統的な「行為契約」という表現の代わりに「創造契約」を好み、堕落以後に展開する神の救済計画を「救済契約」と呼ぶ。問題は、古典的改革派神学においては「救済契約」という言葉が、しばしば御父と御子のあいだの永遠の救済の協約、つまりpactum salutisを指すということだ。

だから初めて読む人は、用語のせいでかえって混乱する可能性がある。

ウェストミンスター信仰告白の伝統的な行為契約・恵みの契約という区別に慣れていれば、「ロバートソンは伝統的な契約神学を否定しているのか」という思いさえ抱くかもしれない。実際のところ、彼は中核的な構造を否定するというより、聖書により近い表現を使おうとする試みだと見なす方が正しい。

ただ、伝統的な用語を敢えて変える必要があったのかについては、少し疑問が残った。

反対に、彼の「創造契約」という概念は、かなり気に入った。

アブラハムとの契約について書かれた頁。割礼について説明されている

アダムに与えられた命令を、善悪の知識の木の実を食べるなという試みだけに縮小するのではなく、労働、結婚、安息日など、人間の創造的責任全体と結びつけるからだ。

こう見ると、救いは魂が天国に行くという問題に縮小されない。

キリストは罪人を赦すだけでなく、罪のために損なわれた人間の人生を回復される。家族も、労働も、文化も、神の創造の目的から除外されない。

この部分は、実際の生活にかなり大きな影響を与えた。

仕事をするときに「これは世のことで、聖書研究だけが霊的な働きだ」と切り分けることが、かえって難しくなった。労働そのものが創造契約のなかで人間に委ねられた使命であるなら、自分が与えられた仕事を誠実に行うことも、信仰と無関係ではないのだ。

家族の世話をすることもそうだ。

信仰は教会の中だけで機能するプログラムではなく、神と結んだ契約的な関係のうちで、人生全体を歩む様式となるのだ。

契約の本質についての説明。死と救いの関係が詳しく記されている

こうして、この本を読んで最も長く心に残った考えは、意外なほどシンプルなものだった。

私は神を、どれほど「契約を守られる神」として信じているのだろうか。

自分の信仰を振り返ると、神を私の感情に応じて判断することがよくある。物事が上手くいくと神が自分を愛してくださっているように感じ、困難が訪れると神が遠くにいるように感じるのだ。

しかし契約神学は、神の誠実さを自分の気分より深いところに置く。

アブラハムが揺らいでも神は約束を守られた。イスラエルが背いても救済の計画は中断されなかった。ダビデの王国が滅びても、ダビデに与えられた約束はキリストにおいて成就した。

結局のところ、救いの確実性は、私がどれほど確実に神にしがみついているかではなく、神がどれほど確実に自分の契約を守っておられるかにかかっている。

だから『The Christ of the Covenants』は、契約神学を学ぼうとする人にだけ必要な本ではない。旧約と新約がなぜ一つの聖書なのか疑問に思う人、アブラハムとモーセとダビデがイエス・キリストにどのようにつながるのか知りたい人、改革派が語る恵みの契約の構造をしっかり理解したい人であれば、一度は深く読んでみる価値がある。

少し堅い部分もあるし、議論をついていくために創世記と出エジプト記、エレミヤ書、ローマ書とヘブル書をずっと繰り返して開かねばならない。しかし、それこそがこの本の長所でもある。

ロバートソンは独創的な神学体系を示そうとしていない。

聖書の中にすでに流れている一つの物語を発見させるのだ。

創造から始まった物語は、堕落によっても途切れず、ノアに受け継がれ、アブラハムに約束され、モーセに制度化され、ダビデに王国の姿で具体化されて、ついに一人の人間に到達する。

イエス・キリストだ。

だから本を閉じたとき、結局のところ、タイトルが最良の要約だと思う。

The Christ of the Covenants.

聖書の中心にあるのは、契約という制度ではない。

契約を立て、それを守り、自らの血によってそれを完成された、キリストがいるのだ。

こんな人におすすめ

  • — 旧約聖書の役割に疑問を感じている人
  • — 聖書の一貫性を理解したい人
  • — 改革派神学の契約論を深く学びたい人
  • — 信仰が生活全体にどう影響するかを考えている人
この記事をシェア X Facebook LINE

本記事の内容は執筆時点の情報および筆者個人の読書体験に基づく感想・評価です。 書籍の価格・版・入手可否は変動します。引用は著作権法第32条に基づく範囲で行い、出典を明記しています。 詳しくは免責事項および著作権・引用についてをご確認ください。

04

神学 |J. V. Fesko(J・V・フェスコ) |