人を高めれば、人は生きるのだろうか。それとも神を高めるときに、人は生きるのだろうか。
牧会の現場に立っていると、この問いから逃げられない。目の前にいる人は、愛されている神の子どもであると同時に罪人だ。尊い魂を持った存在であると同時に、崩れて砕けた魂を抱えた存在でもある。今は人を高める時代だ。では、キリスト教は人間をどう見るのか。どう見るべきなのか。メイチェンのこの本は、まさにそこに答えようとしている。

ラジオ講演から生まれた人間論
J・グレシャム・メイチェンの『The Christian View of Man』は、日本語にすれば『人間についてのキリスト教的観点』といったところだ。アメリカ長老教会の神学者だったメイチェンが、1930年代半ばにラジオで語った講演をまとめ、1937年に出版したキリスト教人間論である。
彼はプリンストン神学校で新約学を教え、自由主義神学と論争し、ウェストミンスター神学校の設立を主導した保守的な改革派神学者だ。だから本書には、聖書の権威、神の主権、人間の堕落を強調する彼の神学的な色がとても鮮やかに出ている。
題名だけ見ると専門的な組織神学の教科書のようだが、実際の文体は比較的やさしく、そして直接的だ。もともと一般の聴取者に向けた放送講演だったからだろう。人間はどこから来て、何のために存在するのか。人間に自由意志はあるのか。罪とは何か。神の摂理と人間の責任はどう両立するのか。メイチェンはそれを一つずつ、ゆっくり問うていく。創造、神のかたち、堕落、罪、予定と自由、救いの恵み。これが本書の大きな幹だ。
高いが、崩れた存在
メイチェンの語る人間は、一言でいえば「高いが、崩れた存在」である。
人間は偶然生まれた物質の塊ではなく、神のかたちに造られた人格的存在だ。だから人間には、他の被造物と区別される尊厳と責任がある。しかし同時に、良い環境と正しい教育さえ与えれば自然に完全になっていく存在でもない。罪によって、知性も感情も、意志も関係も、まるごとねじれてしまった。
人間の偉大さと悲惨さを同時に説明できてはじめて、人間を正しく見ることができる。それがメイチェンの中心的な主張だ。
読みながら、線を引いて覚えておきたくなった文章をいくつか選んでみた。
Man is made by God, in His image, for His glory.
「人間は神によって、神のかたちに、神の栄光のために造られた」。この一文が本全体を圧縮している。人間の価値は、その人がどれだけ有能で有用かから出てくるのではない。神のかたちを持つ存在だという事実から出てくる。同時に人間の目的も、自己実現だけにあるのではない。自分を造った神を知り、その方の善さを現すことにある。
Man is capable of personal companionship with the infinite and eternal God.
人間は「無限で永遠なる神と人格的な交わりを結ぶことのできる存在」だという。人間の特別さを知能や生産能力ではなく、神と関係を結びうるという可能性に見いだしているところが印象的だった。キリスト教における人間の尊厳は、一人で屹立する自律性ではなく、神と隣人に応答できる関係性から来る。
神の自由は、神ご自身の性質に逆らわない
本書の前半は、人間論に入る前に神について語るところから始まる。ここが実は本書の骨格だと思う。

「神が決してなさらないこと」を語るこのページには、思わず線を引いた。神の行いは有限な人格の行いよりも自由であると同時に、より直接的に定まっている、という一文だ。神の外にある何ものも神を決定しないから自由であり、神ご自身の性質が変わることは決してないから定まっている。
つまり神の自由とは「何でもありうる」という意味ではない。神の自由は、神ご自身の善さと聖さに逆らう方向にだけは、絶対に向かわない。この一点を押さえておかないと、このあとに出てくる摂理も予定も、ただの恐ろしい力の話になってしまう。
Second causes are means that God employs exactly as He will.
世界の原因や過程は、神と無関係に作動する独立した力ではなく、神が用いられる手段だという意味だ。メイチェンは神の摂理を強調しながらも、人間の決断や自然の秩序を幻にはしない。神が働いておられるという告白と、人間が責任をもって行動しなければならないという命題は、互いを消し合わない。
「信じるから選ばれた」のではない
そして予定論の章になると、線を引く手が止まらなくなる。

このページの中心にある一文はこうだ。「彼らは信じるから救いに予定されているのではなく、予定されているからこそ信じることができるようにされている」。救いは究極的には人間の意志の行為に依存しない。イエス・キリストを信じるというその行為にすら依存しない、と彼は言い切る。
そのすぐあとで、彼はこの教理に多くの人がつまずく理由を自分で挙げている。「この教理は神をあまりに大きく書き、人間をあまりに小さく書く(It writes God entirely too large and man entirely too small)」からだ、と。ここに線を引いたとき、これこそが本書全体への最大の反発であり、同時にメイチェンの答えそのものだと思った。
彼にとって、神を大きく書くことは人間を貶めることではない。人間が自分の力で自分を救えないという事実を認めるとき、はじめて人間は自分を証明し続ける重荷から解放される。
罪は不完全さではなく、罪責だ
Sin is not merely imperfection; it is guilt.
「罪は単なる不完全さではなく、罪責である」。現代人がいちばん居心地悪く感じる文章だろう。私たちは過ちを未熟さや環境の結果として説明することに慣れている。もちろん環境や傷は、人間の行動を理解するうえで重要だ。しかしメイチェンは、それだけで悪をすべて説明してしまえば、人間は責任を負う人格ではなく、条件に反応する機械になってしまうと見る。

罪を扱う章で、彼はパウロの言う「肉」について長く語る。「肉」とは人間の中の動物的な下部ではない。今あるがままの人間性そのもの、つまり神の霊と切り離され、罪の支配下にある人間性のすべてを指す、と。
このページの終わりで彼は、当時の説教壇から響いていた言葉をこう突き放している。現代の異教は「我は人を信ず(I believe in man)」を信条の中心条項にしている、と。1930年代の文章なのに、今の言葉として読めてしまうのが怖い。
「霊的な人」という言葉について
もう一つ、思わず笑ってしまったページがある。

「私はその言葉をほとんど憎むようになった。それほどひどく誤用されているからだ」。彼が憎みかけているのは「霊的(spiritual)」という言葉である。
現代の宗教的な語り口では、「霊的な人」とは何か特別な宗教的感受性を発達させた人、お金や食べ物に関心がなく精神的なものに関心のある人、というくらいの意味で使われる。だから説教壇に立つ人が聖書の言葉と食い違っていても、「ああ、でもあの人はとても霊的だから」と言われてしまう。
しかし聖書の意味はまるで違う、とメイチェンは言う。「霊的な人」とは、神の霊によって新しく生まれ、自分の一部ではなく本性のすべてを変えられた人のことだ。人間の中の高級な部分ではなく、外から来た神の御業が問題なのだ。この区別は、体・魂・霊の三分説をめぐる議論にもつながっていく。
超自然を認めるかどうか

奇跡を扱う章の論法は驚くほど単純だ。無からこの世界を造った神が、造り終えたあとの世界にもう一度その創造の力を差し入れることが、なぜ不可能だと言えるのか。かつて手段を用いずに働いた方が、もう一度そう働いてはいけない理由はどこにあるのか。
一度なさったことは、明らかにもう一度なさりうる。だから創造を本当に信じている人が、超自然を不可能だと言うことはできない。この論理は、あとに続く人間の創造と再創造、つまり救いの議論にそのまま接続していく。
By the grace of God, man may be restored.
人間の回復は、自分の中に隠れている善さを引き出すことではなく、外から訪れる恵みによって可能になる。人間論として始まった本が、結局は福音へ向かっていく理由もここにある。人間の本当の問題を罪だと診断するなら、答えはより強い意志やより良い教育だけでは足りない。
「教師と模範」だけでは足りなかった
個人的にいちばん胸を打たれたのは、22ページのこの箇所だった。

もし私たちが義人だったなら、キリストが人となる必要はまったくなかった。救い主も必要なかったはずだ。しかし現実に私たちは罪人であり、だからこそ教師や模範、律法を与える者以上の方が必要になる。
そのあとの想像がいい。もし私がイエスを偉大な模範としてだけ聞いたとする。「心の清い者は幸いである」という言葉を聞いて、私は何と答えるだろうか。「ありがとうございます、イエスさま。知りたかったのはそれだけでした。神と隣人を愛し、心が清ければ、すべてうまくいくのですね」——そんなふうには、とても言えない。
メイチェンが書く答えはこうだ。「ああ、私はもうだめだ。私は神も隣人も愛していない。心も清くない。私は罪人だ。イエスよ、あなたの高い命令にもかかわらず、私に何か言うことがおありですか」。
そして。「いや、神に感謝しよう。守れなかった命令という冷たい慰めだけが、この方が与えてくださるすべてではない。この方は、それ以上のものを与えてくださる」。
書き込みの線が、このページだけ妙に強く引かれているのが自分でもわかった。
尊厳と罪、そのどちらも手放さない
読んでいて最も印象深かったのは、メイチェンが人間の尊厳と罪性、そのどちらも手放さないところだ。
人間を罪人だとだけ言えば、キリスト教は人を侮辱する宗教のように見える。反対に神のかたちだけを強調して罪を軽く扱えば、キリスト教は楽観的な人間中心主義と区別がつかなくなる。メイチェンは、人間が尊いからこそ、その堕落は悲劇なのだと見る。もともと取るに足らない存在だったのなら、崩れたところでそれほど悲劇ではなかったはずだ。
この視点は、他人を見る態度を変えてしまう。誰かが深刻な過ちを犯したとき、その人を悪魔と規定して人間の共同体の外に押し出すのは簡単だ。しかしその人も神のかたちを持つ存在だと信じるなら、悔い改めと回復の可能性を完全に閉じることはできない。逆に、すべての行動を傷や環境のせいにして責任を消してしまうことも、愛ではない。
本当の愛は、尊厳を認めながら責任を問い、責任を問いながらもう一度始める道を開く。十字架がまさにその二つを同時に見せてくれる。罪を軽く処理せず、それでも罪人を見捨てない。
自己啓発文化との対比
メイチェンの人間論は、現代の自己啓発文化とも鮮やかな対照をなす。
今の時代には「あなたはもう十分だ」という言葉と、「絶えず自分を成長させろ」という言葉が同時に聞こえてくる。慰めと圧迫が奇妙に結びついている。私は十分だと言われながら、より魅力的で生産的な人間になるために毎日自分を管理しなければならない。ここでは結局、人間の価値は市場で認められる能力と他人の視線に縛られている。
メイチェンはまったく違う出発点を提示する。私は何かを成し遂げる前からすでに神のかたちを持つ存在であり、同時にどんな自己啓発によっても自分を救えない罪人だ。前者は劣等感から自由にし、後者は高慢から自由にする。うまくやったから愛されているのではないから、失敗が自分の存在まるごとを崩す必要はない。すでに愛されているからといって、自分の過ちを正当化することもできない。
引っかかったところ
とはいえ、うなずけない部分もあった。
彼は聖書的創造論を守ろうとする熱意の中で、最初の人間の起源を神の直接的・超自然的な介入と強く結びつける。その意図は、人間を単なる自然過程の副産物に還元させないところにある。しかし今日の読者は、進化生物学と遺伝学が提示する証拠を素通りできない。神のかたちという教理が、必ず特定の科学的な起源説明と束ねられなければならないのかは、もう少し議論の余地がある。科学が人間の身体の形成過程を説明したからといって、人間の目的や尊厳まで解明したことにはならないからだ。
神の絶対的主権と人間の自由を扱う仕方も、改革派の伝統になじみのない読者にはもどかしいかもしれない。すべてが神の摂理のうちにありながら、人間には完全な責任がある。この命題は神学的に重要だが、論理的な緊張が完全に解けるわけではない。とくに虐待や戦争、災害といった具体的な悪の前では、「神のご計画」という言葉が、苦しんでいる人の問いをあまりにも早く閉じてしまう危険がある。
摂理の教理は、他人の悲劇を説明する公式としてではなく、自分が理解できない状況でも神を信頼させる告白として使うべきだと思う。
生活で試してみたこと
読み終えてまず生活に当てはめてみたのは、人を成果で評価する自分の癖を点検することだった。
気づかないうちに、私は有能な人にはより親切で、話すのが遅い人や自分の役に立たない人には雑になっていた。神のかたちは、優れた人により多く与えられた勲章ではない。子どもにも高齢者にも、障害のある人にも重い病の人にも、失敗した人にも同じように与えられている地位だ。
そう意識してみると、誰かの言葉を待ってあげること、名前を覚えること、サービス業の人と目を合わせること。そういう小さなことが、人間論の実践のように感じられた。
同時に、過ちを美化しすぎない練習もするようになった。以前は関係を壊さないために不都合な問題を伏せておくことを愛だと思っていた。しかし人間が責任ある人格なら、間違いを正直に言うこともまた尊重の一部だ。もちろん断罪しようとする心で真実を語れば、それは暴力になる。自分も同じ恵みを必要とする罪人だと覚えながら語るときにだけ、真実は回復のための言葉になれる。
隣に置いて読みたい本
C・S・ルイスの『人間の廃止(The Abolition of Man)』と並べると、二冊の違いが面白い。ルイスは、客観的価値の失われた教育と文化が結局は欲望を操作される人間を作り出すと警告する。メイチェンはそれよりも教理的な場所から、人間の創造と堕落、贖いを説明する。ルイスが文化と教育を通して人間性の崩壊を見せるとすれば、メイチェンは人間性がなぜ尊く、同時になぜ自力では回復できないのかを聖書的人間論で解き明かす。
反対側にはルソーの『人間不平等起源論』を置ける。人間は本来善いが社会制度が彼を堕落させるというルソーとは違い、メイチェンは問題の根を人間の心の中の罪に見る。社会構造を直さなければならないというルソーの洞察と、構造を作る人間自身も変わらなければならないというメイチェンの洞察は、実は一緒に聞く必要がある。
おわりに
この本は、人間の尊厳と罪、自由と責任、神の主権の関係に悩んでいる人にすすめたい。神学校レベルの分厚い人間論を読む前に基礎を固めたい読者にもいい。ただし1930年代のアメリカ改革派神学者の本だという時代的な限界は覚えておきたい。人種やジェンダー、障害、社会構造の中で神のかたちがどんな意味を持つのかは、現代の別の著作で補う必要がある。
『The Christian View of Man』は、人間を楽観しないが、人間を軽蔑もしない。その均衡が、この本の最大の力だ。人間は自分で神になれるほど強くないが、物のように扱っていいほど取るに足らなくもない。造られたから尊く、堕落したから救いが必要で、恵みを受けたからもう一度生きていける。

メイチェンが見せてくれるキリスト教的人間観は、結局「人間はどれほど偉大か」や「人間はどれほど悪か」という問いで止まらない。もっと大事な問いはこれだ。これほど尊く、しかも崩れてしまった人間を、神はどのように愛されるのか。
キリスト教の答えは、人間の可能性ではなく、キリストの十字架にある。
