「喜び」が信仰の敵ではないと言われた日
ジョン・パイパーの『Desiring God』は1986年に出た本で、日本では『神を喜ぶ』系のタイトルで紹介されることが多い。アメリカの福音派・改革派の土壌から生まれた一冊だけれど、読んでみると教理の解説書というより、信仰者の欲望と喜びをめぐる宣言文に近い。
副題は「Meditations of a Christian Hedonist」。ヘドニスト、つまり快楽主義者。言葉だけ切り取ると、世俗的な思想の看板みたいに見える。でもパイパーが「楽しめ」と言う対象は、金でも成功でも感覚的な満足でもなく、神ご自身だ。

この本を貫く一番有名な文はこれだ。
私たちが神のうちで最も満たされるとき、神は私たちのうちで最も栄光をお受けになる。
この一文に本全体が入っている、と言っても大げさではない。パイパーは人間の幸福追求を信仰の敵として扱わない。むしろ人には喜びを渇望するようにつくられた本性があり、その渇きが強すぎるから不幸になるのではなく、あまりに小さな対象で間に合わせようとするから不幸になるのだと言う。
渇きは海ほど深いのに、水たまりの水を飲んで満足しようとしている。読みながら、何度もその絵が頭に浮かんだ。
神ご自身が、ご自身を喜んでおられる
第1章のタイトルは「THE HAPPINESS OF GOD(神の幸福)」で、副題に「Foundation for Christian Hedonism」とある。つまりパイパーは、人間の喜びの話から始めない。神の喜びから始める。

ページの真ん中に、こう置かれている。
The chief end of God is to glorify God and enjoy Himself forever. (神の第一の目的は、神ご自身に栄光を帰し、永遠にご自身を喜ぶことである。)
初めて読んだとき、少し身構えた。神が自分を喜ぶ、と言われると、どこか自己中心的に聞こえてしまう。でも続く段落でパイパーはこう書く。もし神がご自身の栄光を保ち、現し、楽しむことに無限に献身しておられなかったなら、私たちが神のうちに幸福を見いだす望みはない、と。
つまり、神が一番良いものをご自身の中に持っておられるからこそ、私たちはそこに招かれうる。救いも創造の回復も、それ自体が終着点ではなく、その一段手前だという。ここは読み返すたびに背筋が伸びる箇所だった。
義務の言葉で信仰を覚えてきた
私はずっと、神に仕えることを喜びよりも責任の言葉で受け取ってきた。礼拝は休んではいけないもの、祈りはしなければならないもの、聖書は読むべき本。間違った態度ではない。ただ、その枠の中で神は、愛する方というより、私の勤勉さを採点する方に感じられていた。
信仰生活は保っていたけれど、心の奥には目に見えない疲れが溜まっていった。
パイパーは、まさにそこを突いてくる。神は無理やり差し出された従順だけを望む方ではなく、私たちがその美しさに気づいて楽しむことを望んでおられる、と。
妻に「君を愛する義務があるから花を買ってきた」と言ったら、どんな高い花束でも台無しになる。愛する人は相手を喜ぶ。その喜び自体が相手の価値を証明している。神を喜ぶ心も同じで、それがそのまま神の満ち足りた豊かさの証言になるのだ、という筋道だ。
礼拝には、心も頭も要る
礼拝を扱う章に、線を引かずにいられない一節があった。ヨハネ4章、サマリヤの女との対話を追いながら、パイパーは「どこで」ではなく「どのように」「誰を」礼拝するかが問題なのだと書く。

そして章の終わりの方でこう畳みかける。感情を欠いた真理は死んだ正統を生み、記念カードの決まり文句を書くような、形ばかりの賛美者でいっぱいの教会をつくる。逆に真理を欠いた感情は空騒ぎを生み、厳密に考える訓練を拒む浅い人間を育てる、と。
どちらの落とし穴にも、自分は片足ずつ突っ込んでいた気がする。神学的に正しい言葉は言えるのに心が動かない時期があったし、逆に集会の熱気に酔っているだけの時期もあった。礼拝には心と頭の両方が要る、という指摘は痛かった。
祈りは、自信という病の解毒剤
もう一つ、忘れられない表現がある。170ページ、待つことと祈りを扱った箇所だ。

イザヤ30章を引きながら、パイパーはイスラエルの「待たなさ」を追いかける。「立ち返って落ち着いていれば救われる」と言われたのに、彼らは「否、われわれは馬に乗って逃げる」と答えた。神を待たない愚かさは、神に働いていただく祝福を自分から放棄することであり、その悪さは、憐れみによってご自身を高めようとする神の意志に逆らうことにある。
そしてこう結ばれる。祈りは自信という病の解毒剤である。
この一文を読んだとき、自分の祈りの動機がひっくり返るのを感じた。祈りが減る時期というのは、忙しいからでも信仰が薄いからでもなく、「今のところ自分で何とかなっている」と思っているときだった。祈りは、その錯覚を毎回解除する作業だったのだ。
苦難が自己依存から引き離す
苦難の章では、パイパーはコリント第二1章8-9節を軸に据える。アジヤで受けた苦しみについてパウロが「生きる望みさえ失うほどだった。しかしそれは、自分自身にではなく、死者をよみがえらせてくださる神に頼るためであった」と書いたところだ。

見出しがすごい。「WEANING CHRISTIANS OFF THE BREAST OF SELF-RELIANCE」——自己依存という乳房からクリスチャンを離乳させる。乱暴なほど直接的だけれど、的は外していない。
そこにパイパーはこう添える。「人生の本当に深い教訓は、楽で快適な時期を通して得られた」と言う人には会ったことがない。しかし「神の愛の深さをつかみ、神と深く歩むうえで私が前進したときは、いつも苦難を通してだった」と語る信仰者には何度も会った、と。
読みながら、自分の中で「思い出したくない時期」が勝手に並び始めた。当時は意味など何もないと思っていた。振り返ると、あの時期にだけ覚えた祈り方が、今も残っている。
強い論理と、その手前でつまずく人
もっとも、この本がいつも心地よく読めるわけではない。パイパーの論理は強く、文章は確信に満ちている。ページによっては、ギリシア語の語義や古典の用例まで持ち出して押し切ってくる箇所もある。

エペソ5章を扱う章では、「頭(kephalē)」というギリシア語が旧約で指導者を指す用例、アリストテレスの見解、パウロと同時代のフィロンの文章まで並ぶ。論証としては丁寧だけれど、こういうページに来ると、著者の確信の強さが読者の余白を狭めることもあるな、と感じた。
そして本題についても、一つ引っかかりが残る。神を喜びたいのに、実際には何の感情も湧かない人はどうすればいいのか。深い鬱や喪失の中にいる信仰者にとって、「神を喜べ」はもう一つの重い義務にならないだろうか。信仰は確かにあるのに心が乾ききる時期はある。詩篇の記者でさえ「なぜ私を忘れられたのですか」と嘆いた。
ここでパイパーの教えを感情万能主義として受け取らないことが大事だと思う。神を喜ぶとは、いつも明るい気分を保つことではない。涙を流しながら、それでも神のほかに究極の望みはないと告白すること。何の慰めも感じられないときに、それでもみことばの前に座り続けること。それも深い渇望の形だ。喜びは瞬間的な高揚よりずっと広い。ときには、悲しみの中で神を手放さない粘り強い信頼として現れる。
祈りの言葉が変わった
読んだあと、祈る内容が少し変わった。
以前は問題を解決してくださいという要求がほとんどだった。仕事がうまくいきますように、不安を取り除いてください。そういう願いももちろん必要だ。ただ今は、「この状況の中で、神をもっと尊いものとして見せてください」と一言足すようになった。
問題が消えることと、神を知ることは、同じ出来事ではないからだ。状況が良くなったのに神から遠ざかることもあるし、逆に困難が続いている間に、その方と深く出会うこともある。
この見方は日常の選択にも効いてくる。人に認められないと必要以上に落ち込むのは、その評価から満足を取りすぎているからだ。仕事が思い通りに進まないと人生ごと失敗した気になるのは、成果を究極の喜びに据えているからだ。神のうちで満たされるというのは、世の中のことに無関心になることではない。結果に自分を賭けていないからこそ、もっと自由に、もっと正直に働けるということだと思う。
教理が動き出す瞬間
パイパーの主張は、ウェストミンスター小教理問答の第一問と地続きだ。「人の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜ぶことである。」
この文を読むとき、私たちはたいてい「栄光を帰すこと」と「喜ぶこと」を二つの課題として分けて考える。パイパーはそれを一つに結ぶ。神を喜ぶことが、そのまま神に栄光を帰すことなのだ、と。この読み替えで、四百年近く前の答えが急に動き出す。信仰の目的は、神のために渋々幸福を返上することではなく、神のうちで最も深い幸福を見つけることになる。
C.S.ルイスは、人間の問題は欲望が強すぎることではなく、むしろ弱すぎることだと書いた。海辺の休暇がどんなものか想像できないまま、泥んこ遊びで満足している子どものように、私たちは簡単に小さな楽しみに居座る。パイパーはこの洞察を改革派の救済論に接続する。
ジョン・オーウェンが罪の欲望を殺すことに重心を置いたとすれば、パイパーは聖なる熱望で罪の誘惑を追い出す方に重心を置く。二つは衝突するというより補い合う。罪に勝つには禁止命令を繰り返すだけでは足りない。罪が差し出す快楽より、キリストのほうが美しいと味わう必要がある。
それで、私は神ご自身を求めているのか
『Desiring God』は、やさしい慰めをくれる本というより、信仰の動機を点検させる作品だ。神を愛していると言いながら、実は神がくださる贈り物だけを欲しがっていなかったか。礼拝しながら、神より人の視線を気にしていなかったか。読んでいる間は刺されるように痛いのに、不思議と残るのは断罪感ではなく解放感だった。神は喜びを捨てろと言う方ではなく、最も大きく永遠の喜びへ招く方だからだ。
一気に速く読むより、聖書箇所を一緒に開きながらゆっくり進めるほうがいい本だと思う。パイパーの強烈な言い回しの裏にある聖書的な根拠を黙想するとき、この本の価値が出てくる。
結局この本は、「神のためにどれだけ手放したか」より根本的な問いを投げてくる。「私は神ご自身を本当に欲しがっているのか。」
その問いの前で、すぐには答えられなかった。でも、自分の乾きに気づくこともまた恵みの始まりかもしれない。神への渇望そのものが、神からいただく贈り物だからだ。その方を喜びたいという願いを抱えてもう一度みことばの前に座ること。本当の信仰の喜びは、案外そこから始まるのかもしれない。
