気づいていないだけで、みんな神学をしている
スプロールのこの本を手に取って読んだとき、驚きと震えのようなものがあった。組織神学を、これほど易しく、これほど面白く書いた本がほかにあっただろうか。
スプロール自身、神学的な主題を重みを持たせながら、同時に興味深く楽しく教えてくれる師だった。けれど組織神学という、いちばん硬くなりそうな領域まで同じようにできるのだと知って、素直に驚いた。人間論、救済論、キリスト論、神論、終末論。放っておけば難解になりがちな主題を、平易な文体でほどいていく。この一冊で、自分の中に組織神学の大きな骨組みができた。ベルコフのような、もっと深い組織神学の世界へ入っていくための貴重な地図を手に入れた、というのが正直な感想だ。強く勧めたい。

表紙には、聖書の紙面を切り抜いてつくった人のシルエットが三つ並んでいる。立っている男性、椅子に腰かけた人、歩いている女性。特別な誰かではなく、ただの人の形だ。しかもその体は、みことばの紙でできている。本のタイトルをこれ以上正確に言い表した装丁もないと思う。
『Everyone’s a Theologian: An Introduction to Systematic Theology』は2014年刊の組織神学入門書。著者はアメリカ長老教会(PCA)の牧師であり改革派神学者で、リゴニア・ミニストリーズを創設し、生涯にわたって聖書の権威と神の聖さを教え続けた人だ。百冊を超える本を書いたが、難しい教理を日常の言葉に置き換える力において特に抜きん出ていた。
啓示から始まり、終末で終わる一本の線
本書は啓示と聖書から出発し、神の存在と属性、創造と摂理、人間と罪、キリストの位格と働き、聖霊、救い、教会、終末へと順に進む。神学校で一学期以上かけて学ぶ内容を一冊に圧縮した格好だ。
とはいえ、百科事典のように概念を並べるだけの本ではない。各章が短く説明が明晰なので、一度に一、二章ずつ読むのにちょうどいい。「神学書を開けば難しい用語がいきなり降ってくるのでは」という怖さを、かなり下げてくれる。

特別啓示を扱う章では、こんな一文に線を引いた。
Revelation is God’s unveiling of Himself.
「啓示とは、神がご自身を明らかにされることだ。」私たちは推論だけで神に登っていくのではなく、先に語りかけ、近づいてこられた神を通してその方を知る。神学は人間が神を発明する作業ではなく、神が見せてくださったものを注意深く聞き取る作業だ、ということになる。
この章でスプロールは、理性か感覚かという古い論争を横に置いて、キリスト教は結局のところ神ご自身から来る知識の上に立つのだと言い切る。そして旧約における顕現をたどっていく。ギデオンに与えられたしるし、くじ、ウリムとトンミム、そして神顕現。theophany という語が theos(神)と phaneros(現れ)から来ていること、モーセが見た燃えても燃え尽きない柴が「見えない神の見える現れ」だったこと。荒野を導いた雲の柱と火の柱も同じだ。抽象的な啓示論が、いつのまにか具体的な場面の連なりになっている。
出発点が挑発的だ
本書の前提はきっぱりしている。神学は牧師や教授だけの仕事ではない、というものだ。神について何かひとつでも考え、口にした瞬間、私たちはすでに神学をしている。
「神は愛だ」「神は私が幸せであることを望んでおられる」「善く生きれば救われる」——どれも神学的な判断だ。だから問題は、神学をするかしないかではない。正しい神学をするか、間違った神学をするかだ。
Everyone is a theologian.
「すべての人は神学者だ。」短いが、この本全体を貫く宣言だ。神を信じないと言う人も、神は存在しないという神学的判断を下している。教理は嫌いだと言うクリスチャンも、すでに教理についてのひとつの教理を持っている。神学を拒むことは神学から抜け出すことではなく、自分がどんな神学を信じているのか検討しないと宣言することに近い。
No Christian can avoid theology.
「どのクリスチャンも神学を避けることはできない。」礼拝で歌う賛美、祈るときに使う呼びかけ、苦しみを解釈する仕方。そのすべてに神についての理解が入っている。神学は書斎の飾り物ではなく、悲しみと失敗の前で自動的に飛び出してくる心の文法だ。
The purpose of theology is not to tickle our intellects.
「神学の目的は、私たちの知的好奇心をくすぐることにはない。」スプロールは神学を学ぶ目的を、知的な優越感ではなく成熟した従順に置く。教理をたくさん知っている人が他人を簡単に断罪するなら、その知識はまだ信仰の実になっていない。神をきちんと知る人なら、高ぶるより先に、自分が被造物だという事実の前で低くなるはずだ。
神は遠くもあり、近くもある
神論の章で、もうひとつ大事な一文に出会った。
God is both transcendent and immanent.
「神は超越しておられると同時に、近くにおられる。」どちらか一方だけを強調すると、信仰は簡単にゆがむ。超越性だけを言えば神は冷たく遠い絶対者になり、内在性だけを言えば神は私の感情を承認してくれる親しい協力者に縮んでしまう。聖書の神は世界を超えておられるが世界を捨てず、人間の近くに来られるが人間の欲望の中に閉じ込められない。

この緊張は、人間の創造を扱う101ページでもう一度、別の角度から出てくる。中世の神学者たちが持ち出した analogia entis(存在の類比)と、それを二十世紀に激しく攻撃したカール・バルトら新正統主義。神を「wholly other(まったき他者)」と呼ぶ言い方は今では正統的な神学者の間でも広まっているが、スプロールはそれを文字どおり徹底すると致命的だと言う。神が私たちとまったく異なるなら、創造主と被造物のあいだに接点はなく、コミュニケーションの通路もなくなるからだ。
神と人のあいだに何らかの類似があるからこそ、神が語りかけることができる。神が人間の言葉で語られても、それが意味を持つのは類似を共有しているからだ——ここに線を引きながら、余白に「배울 유익(学ぶべき益)」と書いていた。神の超越を守ろうとする言葉が、行き過ぎると神を語りえない方にしてしまう。バランスというより、どちらも手放してはいけない二本の柱だという感じがした。
ペルソナという言葉のややこしさ
三位一体を扱う章は、用語の来歴をたどるところから始まる。教会が「神はひとつの本質である」と宣言したのは、神が部分的にここにいて部分的にあそこにいるのではない、という意味だった。

やっかいなのは「一つの存在、三つの位格」の「位格」だ。もとはラテン語の persona で、法律用語であり、演劇の用語でもあった。訓練された俳優が一つの劇で複数の役を演じるとき、仮面を通して語り分けた。その仮面が persona だ。テルトゥリアヌスが神を一つの存在・三つの personae と語ったとき、彼は父・子・聖霊として同時に存在すると言っていた。ただしこの「位格」は、現代英語の personality——一人の人格イコール一つの独立した存在——とはぴったり重ならない。
だから subsistence(自存)や existence(存在)といった別の用語が持ち出される。神格における subsistence は実在する区別ではあるが、存在そのものの違いではない。三位格はすべて神性のあらゆる属性を持っている。このあたりは何度読んでも指の隙間から落ちていく感覚があって、丸と下線が増えていった。分かりやすく書かれているからといって、内容が浅いわけではないと分かる箇所だ。
正典はだれの権威で決まったのか
聖書論の中でいちばん考えさせられたのは、正典の範囲をめぐる39ページだった。

十六世紀、ローマ・カトリックとプロテスタントのあいだで旧約の範囲、とくに中間時代に生まれた外典をめぐって争いが起きた。カトリックは受け入れ、宗教改革の諸教会はおおむね受け入れなかった。争点は、一世紀の教会とイエスご自身が何を正典と認めていたか、だ。
スプロールの結論はこうだ。プロテスタントの理解では、聖書の各書は誤りのない書だが、どの書を含めるかを決めた教会のプロセスそのものは無誤ではない。教会は神のあわれみによって摂理的に導かれ、正しい判断に至った。だから聖書に入るべき書はすべて聖書に入っている。しかし教会が本質的に無誤だとは信じない。カトリックの図式では、教会が無誤だから正しい書を持っている、となる。カトリックの正典は教会の権威に立ち、プロテスタントの正典は神の摂理に立つ。
短い一節だが、権威をどこに置くかという問いがくっきり出ている。ここには星印まで書き込んでいた。
いちばん響いたのは、神学の実用性を弁護するところ
多くの人は教理を、生活と関係のない理論だと考える。だが実際に危機が来ると、自分が何を信じていたかがそのまま露わになる。愛する人を失ったとき神の摂理をどう理解するか、失敗したとき人間の価値をどこに求めるか、赦しがたい相手の前で恵みを何だと考えるか。それが人生の方向を決める。
私自身、神学を礼拝と日常から切り離して考えていた時期がある。三位一体や義認や摂理は試験のために覚える教理のように感じられ、現実の問題には心理学や経験のほうが直接役に立つと思っていた。ところが静かに振り返ってみると、不安になるたびに「結局すべては自分の力次第だ」という神学を信じていた。口では神の摂理を告白しながら、実際には自分が人生の最終的な管理者だと思っていたのだ。間違った神学は頭の中の誤りで終わらず、過剰な不安と支配欲になって現れた。
本を読んだあと、まず祈り方が少し変わった。問題が起きたときすぐに解決策を要求するより先に、いま自分は神をどんな方として想像しているのかを問うようになった。望む結果を提供すべき契約相手のように神を扱っていないか。その方の善さを、自分の状況の快適さだけで判断していないか。教理を生活に適用するというのは、難しい用語を日常に無理やりはめ込むことではなかった。すでに自分が生きてしまっている間違った信仰を見つけ出し、それを聖書の語る神についての知識で修正することだった。
義認と聖化の順序が、自由をくれる
スプロールの最大の長所は明快さだ。一般啓示と特別啓示、キリストの神性と人性、義認と聖化のように混同しやすい概念の境界を、はっきり引いてくれる。

とくに義認を扱う章は、信仰生活に実際的な自由をくれる。ルターは信仰のみによる義認を「教会がそれによって立ちも倒れもする条項」だと主張し、カルヴァンも同意した。義認が論じられるとき、福音そのものが賭けられていると見たからだ。ダビデが「主よ、あなたが不義に目を留められるなら、だれが立ちえましょうか」と祈ったとおり、神の義の物差しを当てられて立てる人はいない。
スプロールが「大衆文化の大いなる神話」と呼ぶのは、人が神の好意を earn(勝ち取る)できるという考えだ。しかもそれが教会の中にまで入り込んでいる。神に受け入れられるために善く生きるのではなく、キリストにあって受け入れられたから善く生きる。この順序が逆転すると、信仰は恵みではなく、終わりのない自己証明の労働になる。ここは線が何本も重なっていた。
教会は「混ざった体」だ
教会論の章の書き出しも印象に残っている。

英語の church の語源であるギリシア語 kyriakon は「主(kyrios)に所有されている者たち」を指す。スコットランド語の kirk、オランダ語の kerk、ドイツ語の Kirche も同じ根から来ている。もうひとつの語 ekklēsia は ek-(〜から外へ)と kaleō(呼ぶ)から成り、「呼び出された者たち」を意味する。
ただし、教会がいつもその名のとおりであるとは限らない。アウグスティヌスが言ったように、教会は corpus per mixtum、混ざった体だからだ。この世における教会は麦と毒麦の組み合わせでできている。教会は清さを追い求めるよう召されているが、キリストは毒麦を抜こうとして麦を傷つけるような、行き過ぎた戒規を戒められた。名前が指し示す理想と、いま目の前にある現実とのあいだの距離を、ごまかさずに置いている。この率直さが好きだ。
明快さには影もある
ただ、明快さには影もある。本書は改革派組織神学の結論を簡潔に提示することに集中しているので、それぞれの教理が形づくられた歴史的論争や、他の伝統の声は十分には紹介されない。カトリック、東方正教会、ウェスレアンの伝統、現代神学が投げかける問いは、ほとんど周辺にとどまる。初心者には鮮明な地図になるが、その地図をキリスト教全体の領土だと思い込むと困ったことになる。
予定論の扱いでも似た緊張を感じた。スプロールは神の主権を揺るぎなく強調するが、選ばれなかった人の問題や、人間の実質的な自由をめぐる情緒的・哲学的な難しさは比較的速く通り過ぎる。論理は一貫しているが、すべての読者の実存的な問いを解消するとは言いがたい。神の主権を告白することと、説明しがたい苦しみの前で沈黙する謙遜は、一緒に歩まなければならないと思う。
聖書の無誤性と権威を扱う部分も大切だけれど、聖書を正しく解釈する共同体的な責任についての議論は、もっと必要に見えた。「聖書はこう言っている」という表現がいつも中立なわけではない。実際には、特定の時代と文化の中にいる私が聖書をそう解釈した、ということでありうる。聖書の権威を高めることと、自分の解釈を絶対化することはまったく別だ。よい神学者とは確信のない人ではなく、自分の確信もみことばと教会共同体の前で検証し続けられる人であるはずだ。
似た本と比べると
アリスター・マクグラスの『神学とは何か』と比べると差がはっきりする。マクグラスは教理が形成された歴史と複数の神学的伝統を幅広く見せてくれるのに対し、スプロールは改革派の答えをより短く、より硬く提示する。ミラード・エリクソンの『組織神学』が複数の見解を比較しながら論証していく教科書だとすれば、『Everyone’s a Theologian』は神学の全体構造を素早く見渡させてくれる案内図だ。深さでは専門書に及ばないが、アクセスのしやすさと伝達力ははるかに勝る。
だからこの本は、神学を初めて学ぶ信徒、教理教育を準備している教師、聖書を断片的な引用ではなくひとつながりの真理として理解したい人に勧めたい。各章が短いので、小グループで一緒に読んで話し合うのにも向いている。ただし、この一冊で神学の勉強を終わらせるより、ここで手に入れた地図を持って教会史や聖書神学、他のキリスト教伝統の著作へ進むほうがいい。
結局、問いはひとつになる
『Everyone’s a Theologian』は、すべての信者が専門の神学者になるべきだと主張する本ではない。私たちはすでに神についての考えを抱えて生きているのだから、その考えを放置するな、という招きだ。
悪い神学は必ず悪い実を結ぶ。神をただ裁く方としてのみ理解すれば恐れに閉じ込められ、無条件の協力者としてのみ理解すれば悔い改めを失う。人間を本来善いとだけ見れば罪を軽く扱い、まったく無価値だと見れば神のかたちと恵みを取り落とす。
結局、神学の水準は難しい用語をどれだけ知っているかでは決まらない。自分が信じる神に似て、どんな人間になっていくかで表れる。神学が愛と正義、悔い改めと希望につながらないなら、知識は増えても神をより深く知っているとは言いにくい。
みんなが神学者なのだとすれば、問いはひとつだ。私はどんな神学者なのか。そして、私が信じる神は、いまの私の言葉と選択と、人に対する態度の中で、どのように現れているのか。
