トマス・ボストンの『Human Nature in Its Fourfold State』を読みながら最初に浮かんだのは、昔のピューリタンは人間を怖いくらい真剣に見ていたんだな、という感想だった。1720年に出たこの本は、人間の状態を四つに分ける。創造されたときの無垢な状態、堕落したあとの全的な腐敗、恵みによって始まった回復、そして最後に永遠の幸福あるいは悲惨。要するに創世記1章から黙示録の最終章まで、人間の霊的な伝記を一冊に収めたようなものだ。
表紙がその構造をそのまま絵にしている。innocence、nature、grace、eternal と書かれた四つのパズルピースが、真ん中で噛み合っている。買ったときは正直、少しかわいらしすぎる装丁だと思った。中身は全然かわいくない。
四つの箱ではなく、一つの問い
読み始めた頃は、この区分は図式的すぎるんじゃないかと疑っていた。人間という存在はもっと入り組んでいるのに、四つの枠で足りるのか。
でも読み進めるうちに、ボストンは人間の性格を四種類に分類しているわけではないと分かってきた。彼が投げているのは一つの問いだけだ。
「この人は今、神とどういう関係の中にいるのか」
この問いを軸に置くと、本の骨格が急にくっきりする。
アダムは最初から悪く造られた存在ではなかった。神を愛し、従うことができたし、罪を犯さないでいることもできた。ところが堕落のあと、人間はいくつか間違った行いをする存在になったのではなく、心の向きそのものが神から背を向けてしまった。恵みによって新しく生まれた人は、罪のない完全な人間になるのではなく、以前は持っていなかった新しい方向を与えられる。そして最後の栄光の状態では、罪と死そのものが終わる。
この流れはアウグスティヌスが人間の意志を説明するときに使った有名な区分とも重なる。堕落前は「罪を犯すこともできるし犯さないこともできる人間」、堕落後は「罪を犯さずにはいられない人間」、恵みの中では「罪を犯さないでいられる人間」、栄化された状態では「もはや罪を犯しえない人間」。ボストンはこれを、驚くほど牧会的で実践的な言葉に翻訳していく。
二番目の状態で長く止まった
私が一番長く足を止めたのは、二番目、堕落した人間についての部分だった。
ボストンの言う全的堕落は、よく誤解されるように「すべての人間が可能なかぎり最悪の悪人になった」という意味ではない。人間存在のあらゆる領域が罪の影響を受けている、という意味に近い。理性も、感情も、意志も、欲望も、神から独立した中立地帯として残ってはいないということだ。
第91ページにこんな一節がある。生まれつきの心には霊的真理への「敵対(opposition)」と「嫌悪(aversion)」がある、と。そしてその少しあとで、神の約束は罪人を引き上げるために天から下ろされた「銀の綱(silver cords)」なのに、人はそれを投げ捨てる、と書く。手を伸ばせば届く綱を、わざわざ払いのける絵だ。

この話が居心地悪いのは、他人の罪を説明するにはぴったり当てはまるのに、自分に当てはめた瞬間に急に痛くなるからだ。
私は他人の高慢はすぐ見抜く。ところが自分の中の認められたい気持ちには、なかなか立派な名前をつける。責任感と呼んでみたり、情熱と言い換えたり。他人の欲は強欲と裁くくせに、自分の欲しいものは必要だと説明する。誰かが怒れば性格の問題だと考え、自分が怒れば「状況がそうさせた」と弁明する。
ボストンの人間論は、こういう自己弁護をほとんど許さない。彼の一番鋭い診断のひとつがこれだ。
You are lost, and cannot help yourself. (お前は道に迷っていて、自分で自分を助けることができない。)
短い文なのに、けっこう刺さる。
問題が「死」なら、話が変わる
現代人はこの言葉をあまり好まないだろう。今の時代の自己啓発書は、人間の潜在力を信じろと言う。内なる力を見つけ、考え方を変え、良い習慣をつくれば、もっとましな人間になれる、と。そこには確かに真実がある。運動して、本を読んで、節制する人は実際に変わる。
でもボストンが指しているのは、それよりずっと深いところにある問題だ。
必要なのが単なる改善なら、教育者がいればいい。習慣が問題ならコーチで足りる。無知が原因なら、良い本を読めば解決する。
けれど問題が死なら、話がまるで変わる。
死んだ人に必要なのは助言ではなく、命だ。
第159ページ、「THE MISERY OF MAN’S NATURAL STATE」の章はこの主題を容赦なく展開する。死が来れば「罪の仲間たち(the companions in sin)」である体と魂は引き離される、と書いてある箇所で、私はしばらく本を閉じた。最後の審判とゲヘナの描写が続くこの数ページは、現代の読者にはかなり重い。ここだけ読んで本を投げ出す人もいるだろうと思う。

いちばん大事に読んだのは、三番目の状態だった
だから逆説的だけれど、この本で私が一番重要に読んだのは堕落ではなく「始まった回復」のほうだった。ボストンの人間論は暗いが、彼の福音は暗くない。人間の無力をあれほど深く掘るのも、人を絶望の中に閉じ込めるためではない。自分自身に希望を探すのをやめさせて、キリストを見上げさせるためだ。
彼は堕落した人間についてこう書く。
We are born children of wrath. (私たちは怒りの子として生まれる。)
かなり強い表現だ。でもまさにその文脈で、ボストンは過去と現在を区別する。恵みが人をその状態から引き上げる、と。だから彼の神学において重生は、宗教生活をもう少し熱心に始める出来事ではない。人間が属している状態そのものが入れ替わる出来事だ。
第243ページ、重生の章にはこんな一文がある。新しく生まれていないなら、あなたの最良の行いも「きらめく罪(glittering sins)」にすぎない。同じページにもっと好きな比喩があった。信仰は自然という畑には生えない花だ、と。根がなければ木が育たないように、新しい性質なしに人は信じることができない。

ここを読みながら、昔の自分を思い出した。信仰生活を熱心に続けていれば、自然ともっと良いクリスチャンになれると思っていた時期がある。聖書をたくさん読んで、祈って、奉仕して、罪を減らしていけば、いつのまにかそこそこまともな人間になっているだろう、と。
ところが時間が経つほど、なぜか逆だった。
前は見えなかったものが、むしろ増えて見えてきた。口に出さない高慢、善行の裏に隠れている承認欲求、絶えず他人と比べる心、神より結果のほうを信じている態度。そういうものが目につきはじめた。
最初は信仰が後退したのかと思った。
ボストンを読んで、考えが少し変わった。光が明るくなれば埃はよく見える。聖化が進むというのは、必ずしも自分に対する満足が増えていくことではないのだろう。むしろ神の聖さを知るほど、自分の中の歪みを細かく発見するようになるのかもしれない。
だからボストンの全的堕落の教理は、意外にも慰めになる。自分の中に妙な欲望が見つかること自体は、恵みがない証拠とはかぎらない。大事なのは、その罪と仲良く同居しているのか、それを憎んでキリストのところへ持っていっているのかだ。
海のこちら側から、自分がいた海を振り返る
キリストとの結合を扱う297ページに、忘れられない比喩があった。根が地にあって枝が天まで届いている木を想像してみよ、と彼は言う。根と梢の距離がどれほど遠くても、その間の交通は途切れない。天におられるキリストと地上にいる者たちの距離も、両方に住まう同じ御霊という「見えない絆」によって埋められている。エゼキエルの幻の車輪が生き物と接してはいないのに一緒に上っていく、あの場面まで持ち出してくる。

同じところでボストンは、聖徒たちに自分がどこから引き上げられたかを振り返るよう勧める。まるで紅海の向こう岸に立って、自分が沈んでいた海を眺めるように、以前の状態を思い出せ、と。
私はこの部分が本当に好きだった。
救われた人というのは、過去を誇らしげに眺める人ではなく、「あそこからどうやって出てきたんだろう」と驚いている人だ。
だから恵みを深く知っている人に、優越感は似合わない。自分が他人より賢かったから抜け出せたのではないし、意志が強かったから助かったのでもないし、道徳的に優れていたから選ばれたのでもないからだ。結局残るのは感謝だけになる。
「人間嫌い」なのか、という疑問
読みながら引っかかった点もある。
ボストンは人間の無力を強調しすぎではないか。
堕落した人間も善行をするし、家族を愛するし、正義のために犠牲を払いもする。それでも本当に「全的に腐敗している」と言い切っていいのか。
この疑問は十分に成り立つと思う。ただ、ボストンが立てている基準は「社会的に有益な行動ができるか」ではない。「神を自分の究極の目的として愛せるか」だ。改革派神学の言う全的堕落は、人間が人間的な次元で何ひとつ善を行えないという主張ではなく、人間存在の中心が創造主から外れているという診断だ。
この違いを取り違えると、ボストンはただの人間嫌いに見える。ちゃんと読めば、彼はむしろ、人間への希望を人間の内側に探さない人だ。
この点で自然に思い出したのが、ジョン・オーウェンの『信者のうちに宿る罪』だった。オーウェンがすでに新生した信者の内部で罪がどう働くかを顕微鏡で観察するとすれば、ボストンはもっと引いた位置から人間の全史を眺めている。オーウェンが心の中の戦争を分析するなら、ボストンはその戦争がなぜ起きて、最終的にどこへ向かうのかを見せる。
カルヴァンの『キリスト教綱要』と並べても面白い。カルヴァンが教理を巨大な建築物として組み上げるとすれば、ボストンはその家の中に人を連れ込んで、鏡の前に立たせる。「人間は堕落している」という命題を知って終わりにせず、「では、あなたは自分自身をどう見ているのか」と問い続ける。
四番目の状態があって、本が完成する
そしてこの本は死で終わらない。
四番目の状態があるから、全体が閉じる。
ボストンにとって人間の最終目的地はただの死ではない。復活と審判を経て、神とともに味わう完成された幸福か、神から永遠に切り離された悲惨かが待っている。だから今の人生は、それ自体で閉じた物語ではない。
434ページの「THE ETERNAL STATE」の章に、こんな一節がある。天の国について私たちの知識はきわめて不完全だ。だから神は、幼い子どもに身近なたとえで教える親のように、弱い私たちのために天の幸福を地上のイメージで示してくださる、と。そのうえでボストンは、聖徒一人ひとりが王として国を受け継ぐと書く。しかも彼らが絶対的な支配権を持つ対象は、まずかつて自分を支配していた罪なのだという。今は自分を苦しめている感情や傾きを、そのときには完全に治める、と。

ここを読みながら、最近の自分は「現在形の信仰」だけを抱えていたのではないかと思った。今うまくいっているか、心が穏やかか、祈りが聞かれたか、問題が解決したか。信仰の評価基準が、どうしても今日の状況に寄っていく。
でもボストンは視野を永遠まで引き伸ばす。
今日の成功も一時、失敗も一時だ。
だとすれば一番大事な問いは「今日どれだけ快適か」ではなく、「自分は今どの国に向かって歩いているのか」になるはずだ。
覚えておきたい四つの文
本の中から、自分なりに四つにまとめておきたい。
「お前は道に迷っていて、自分で自分を助けることができない」 最初は絶望的に聞こえるが、実は福音が始まる場所だ。自分で自分を救えると信じている人は、救い主を必要としない。
「私たちは本性上、怒りの下にいた」 これは他人を断罪するために与えられた文ではなく、自分がどこから引き上げられたのかを思い出させる文だ。
「恵みが私たちをその状態から引き出した」 救いの主語が結局のところ自分ではなく神だという事実が、ここに入っている。
「聖徒は自分が出てきた海を振り返るべきだ」 過去を振り返る理由は罪責感に沈むためではなく、恵みを忘れないためだ。
読みやすい本ではない。それでも
『Human Nature in Its Fourfold State』は、すらすら読める本ではない。ピューリタン特有の反復と長い論証があるし、罪と審判の描写は現代の読者にはかなり重い。何より、人間についての楽観的な話を期待して開くと、相当に居心地が悪いはずだ。
ところが信仰生活が長い人には、その居心地の悪さが必要になるときがある。
福音を長く聞いていると、恵みという単語にまで慣れる。神が私を救ったという言葉にも、もうさほど驚かない。ボストンは救われる前の人間をずいぶん深いところまで引きずり下ろしてから、もう一度恵みを見上げさせる。
高い山がどれほど高いかは、谷底から見上げたときにいちばんよく分かる。
彼が人間の堕落をあれほど深く掘るのも、結局は恵みの高さを見せるためだったのだと思う。
本を閉じたあと一番長く残ったのは、四つの状態よりも一つの問いだった。
私は今どこに立っているのか。
アダムの中にいるのか、キリストの中にいるのか。自分の力を頼りに生きているのか、恵みに寄りかかっているのか。そしていつかすべてが終わるとき、私が期待しているものは何なのか。
300年前のスコットランドの牧師が投げた問いなのに、不思議なくらい古びていない。時代が変わっても人間は相変わらず自分を過大評価し、死から目をそらし、恵みより自分の力を信じたがるからだろう。
だからこの本は人間を学ぶ本であり、同時に自分をのぞき込む本でもある。
ボストンを読むと、人間にあまり期待しなくなる。
それなのに、なぜか希望が減るわけではない。
むしろ神のほうに、もっと多くを期待するようになる。
たぶんこの人間論の目的も、結局そこにあるのだと思う。
