聖霊については、体験も知識も大切だ。私自身、そのどちらも十分ではなかった頃がある。聖霊について一冊きちんと読んでおきたい——そう思って手に取ったのが、ピューリタンの巨人ジョン・オーウェンの『The Holy Spirit』だった。
ピューリタン神学を代表する神学者らしく、きわめて体系的で緻密な構成のもと、聖霊がどのような方であるかを明快に説き明かしてくれる。読んでいて助けられたことが、本当に多かった。
『The Holy Spirit』を初めて開いたとき、まず浮かんだのはこれだった。聖霊についての本なのに、驚くほど落ち着いている。今日「聖霊」という言葉を聞くと、異言、癒やし、預言、激しい感情、集会の熱気といった情景をまず思い浮かべやすい。ところがオーウェンは、そうした現象から出発しない。聖霊とは何か、三位一体の神のうちでどのような方であるか、創造と贖いにおいて何をなさったか、人間の新生と聖化においてどのように働くのか——一つずつ問い直していく。
ジョン・オーウェンは17世紀イギリスのピューリタン神学を代表する人物だ。1616年に生まれ、1683年に世を去った。牧師であり、同時にオックスフォード大学副総長を務めた学者でもある。私たちが一般に『The Holy Spirit』と呼ぶ本の原型は、1674年に出版された膨大な『Pneumatologia: A Discourse Concerning the Holy Spirit』である。聖霊の名と人格、そのわざだけでなく、旧約聖書と新約聖書、新生、聖化と聖なる生活まで広く扱っている。今日でも英語圏の改革派の聖霊論の古典の一つとして高く評価されているのには、それだけの理由がある。

本の流れは意外に明確だ。まず聖霊の神性と人格を扱い、旧約聖書と新約聖書で聖霊がどのように働いたかを考察する。次いで人間のうちに起こる新生を説明し、その後、聖化と聖なる生活へ進む。結局オーウェンの関心は「聖霊についてどれだけ多く知るか」ではなく、聖霊がどのように一人の人間を新しい人へ造り変えていくかにある。
この本を読むなかで最初に修正された考えは、聖霊の働きを「特別な瞬間」にだけ限定していた、ということだった。
オーウェンは、聖霊が旧約聖書において預言や奇跡といった非凡なわざだけをなさったのではなく、統治する力、勇気、知恵、技術といった人生のさまざまな領域でも働かれた、と説き明かす。ベツァルエルとオホリアブが幕屋を造る技能を受けたことまで、聖霊のわざとして捉え直す。
この箇所がかなり印象に残った。

私は聖霊の満たしを考えるとき、主に祈りや礼拝を思い浮かべていた。ところが聖霊が人間の知性や才能、判断力、そして奉仕までも用いられるのなら、話が変わってくる。職場で仕事をきちんとすること、与えられた務めを誠実に果たすこと、他者を知恵をもって助けることも、神の国と無関係な領域ではなくなる。
信仰を日曜日の宗教的活動へ狭めてしまう習慣を、オーウェンは静かに、しかし確実に砕く。
そして本書の中心へ入っていくと、やがて「新生」という大きなテーマに行き着く。
オーウェンにとって、人間の問題は単なる情報不足ではない。神を知らないから、説明をもっと聞けば信じるようになる——そういう存在ではない。罪のゆえに、人間の心そのものが神に向かって硬くなっている。
本のなかに、よく知られた一文がある。
「恵みが働く前、人間の心は『石』のようだ。」
表現はかなり強い。
今日、人間を肯定的に見ることはごく自然になっている。人のうちには基本的に善い可能性があり、それをうまく引き出せばより良い人になれる、と考える。ところがオーウェンの人間論は、はるかに悲観的に見える。
しかし、ここに一つ大切な点がある。
オーウェンは人間について厳しい見方をする一方で、恵みについては徹底して希望に満ちている、ということだ。
人間が自分を変えられないのなら、救いは初めから終わりまで神のわざとなる。新生とは、人間が神を選ぶより先に、聖霊が霊的に死んだ人間を生かす出来事だ。だからオーウェンの聖霊論には、人間が誇る余地がほとんど残らない。
この箇所を読みながら、ヨハネ福音書3章のニコデモが思い浮かんだ。
イエスはニコデモに、もっと勉強しなさいとは言われなかった。
「新しく生まれなければならない。」
問題は知識の量ではなく、いのちの状態だったのだ。
同時に、ここで一つの疑問も浮かんだ。
人間の無力を強調しすぎると、人間の責任が弱くなるのではないか。
人間には神を信じる力がなく、聖霊が先に変えてくださる必要があるのなら、なぜ神は人間に悔い改めを命じられるのか。
オーウェンと改革派の伝統は、この二つを矛盾とは見ない。人間は罪のゆえに神を望まないが、その無力自体が罪から来ているのだから、責任は消えない。そして福音の命令を通して、聖霊は実際に人を召し出す。
頭では理解できる。それでも、緊張は残ったままだ。
むしろ私は、その緊張を無理に解消しようとせず、そのまま受け止めるほうが聖書的だと考えている。神の主権と人間の責任のどちらかを外してしまえば、論理的には楽になるかもしれないが、聖書の多くの箇所を十分に説明できなくなるからだ。

オーウェンの聖霊論のなかで私がいちばん好きなのは、新生よりもむしろ聖化についての説明だ。
オーウェンにとって、聖霊の働きは回心の瞬間で終わらない。
新しいいのちを与えた聖霊は、そのいのちを絶えず造り変えていく。欲望を変え、罪と戦わせ、キリストに似た者へと変えていく。ここで『罪殺しの教理』で見たオーウェンの一面が、また顔を出す。
オーウェンは聖さを、外面的な道徳性へ縮めない。
彼が残した有名な表現がある。
「聖さとは、福音が私たちの魂に植えつけられ、書き記され、生活に現れることだ。」
この一文は、長く覚えておきたい。
聖さとは、良い人になることではない。キリスト教的な規則をよく守ることでもない。福音が人のうちに入ってきて、その人の思い、欲望、行動の構造そのものを変えてしまうことだ。
本書の核心を私なりに数文へ圧縮するなら、こうなる。
「聖霊はキリストに取って代わる方ではなく、私たちのうちでキリストの栄光を現す方だ。」
「新生は人間が自分を直すわざではなく、神が新しいいのちを与える出来事だ。」
「聖化は意志の力で罪を抑え込むわざではなく、聖霊に従って罪と戦う生涯の過程だ。」
この三つは文字どおりの引用ではなく、読みながら私がつかんだオーウェンの核心を整理したものだ。
とりわけ最初の一文が重要だと思う。
聖霊中心の信仰とキリスト中心の信仰を、互いに相反するものと考えてしまうことがある。
「私はイエス中心だ。」
「私は聖霊中心だ。」
しかし新約聖書において、この二つが競合することはない。
聖霊に満たされるほど、キリストが大きく見えてくる。聖霊はご自身を誇示するより、キリストの栄光を現す方だからだ。だから、ある集会や運動が「聖霊」をさかんに語りながら、かえって十字架、悔い改め、キリストの主権が曖昧になっているなら、オーウェンの視点からは一度吟味してみる必要がある。

逆もまた同じだ。
改革派教会が教理を正確に教えながら、聖霊の実際的な働きにほとんど触れないのなら、それもまた健全ではない。
聖書を理解することも、罪を悟ることも、キリストを愛することも、聖なる者へと変えられることも、すべて聖霊のわざだからだ。
だからオーウェンを読むと、カリスマ主義への批判だけを受け取るのではなく、むしろ冷たい理性主義への批判も受けることになる。
この点は、私にとってかなりありがたかった。
これまで聖霊についての本を読みながら、両極端によく出会ってきた。一方は聖霊を体験だけで説明する。もう一方は聖霊論を教理項目の一つとして整理したきり、実際の信仰生活と結びつけられない。
オーウェンは驚くほど、その両者を見事に両立させる。
きわめて教理的でありながら、同時に実践的だ。
聖霊が神であるという教理を数十ページかけて説き明かしておきながら、最後に問うのはこれだ。
では、あなたは聖霊に従って生きているのか。

この点では、シンクレア・ファーガソンの『The Holy Spirit』と比べてみる価値がある。ファーガソンの本が現代の読者に、より明確で圧縮された聖霊論を示すとすれば、オーウェンははるかに深い鉱山へ降りていく感じだ。同じテーマを何度も違う角度から掘り続けるので、読む速度は遅くなるが、一度理解した内容はそう簡単には消えない。
アブラハム・カイパーの『The Work of the Holy Spirit』とは、似ているようで異なる。カイパーが聖霊のわざを教理体系のなかで壮大に見渡すとすれば、オーウェンは人間の魂のうちで実際にどのような変化が起こるのかを、はるかに細やかに見つめている。
読みやすい本だとは言いがたい。
17世紀のピューリタン特有の長い文章と反復、一つの論点を複数の方向から証明していく書き方のために、ときどき「この話、さっきもしなかっただろうか」と思うことがある。現代の読者には抄訳版のほうがずっと読みやすいかもしれない。実際、今日『The Holy Spirit』の名で読まれている版のなかには、オーウェンの膨大な原著を現代の読者向けに短くまとめたものもある。
しかし、ゆっくり読んでいくと、不思議と自分の信仰を点検させられる。
私もこの本を読んでから、祈り方が少し変わった。
以前は聖霊の助けを求めながら、実際には自分の望む結果が実現するよう、力を与えてくださいと祈ることが多かった。
ところがオーウェンを読むうちに、問いが変わってきた。
「聖霊よ、このことをうまく運ばせてください」ではなく、
「このことを経験するあいだ、あなたは私のうちで何を変えようとしておられるのですか」
と問うようになった。
状況が変わることより、人が変えられることのほうが、聖霊のより深い働きなのかもしれない——そう思うようになったからだ。
そしてその変化は、いつもキリストに似る方向へ向かう。
結局、『The Holy Spirit』を読んで最も強く残ったのは、聖霊についての知識ではなかった。
キリスト者の人生は初めから終わりまで、聖霊なしには成り立たないという事実だった。
回心も聖霊のわざであり、みことばを悟ることも聖霊の助けであり、罪と戦うのも聖霊の力であり、祈ることも、愛することも、忍耐することも、最後まで信仰を守り抜くこともまた、聖霊のわざだ。
だとすれば、聖霊に満たされているかどうかは、特別な感情を体験したかどうかだけでは判断できない。
もっと確かなしるしは、別のところにあるのかもしれない。
昨日より罪をいよいよ厭うようになったか。
キリストがいよいよ尊く見えるようになったか。
赦しがたい人を赦そうと努めているか。
自分の義ではなく、神の恵みにいよいよ頼るようになったか。
オーウェンの本を閉じて気づいたのは、聖霊を最も明確に現す人とは、「私は聖霊を体験した」と多く語る人ではなく、その人生のうちにキリストの性質が少しずつ現れてくる人ではないか、ということだった。
聖霊論を初めて学ぶ人に、最も読みやすい入門書として薦めるのは難しい。しかし改革派の神学を愛し、新生と聖化が実際に何であるのかを深く考えたい人、とりわけ『罪殺しの教理』を印象深く読んだ人なら、一度は読む価値がある。
何より本書は、聖霊について説き明かしたあとで、私たちを聖霊の御前に立たせる。
私はその意味で、この本を単なる教理書というより、信仰を照らす鏡だと考えている。
聖霊をどれだけ知っているかということより、もっと重要な問いが最後に残るからだ。
私は本当に、聖霊と共に生きているのか。
