先に一つだけ書いておく。この本は原書で読むほうが、はっきり理解しやすいというのが実感だった。
理由は語学力の話ではない。本書の骨格が、英語の語の差そのものに乗っているからだ。 knowing about God と knowing God。propitiation(宥め)と expiation(罪の除去)。 パッカーはこうした語を隣に並べて、その差だけで議論を進める。 訳を経由すると、この差は「〜について知る/〜を知る」という日本語の中に一度溶けてしまい、 なぜ著者がここまで粘るのかが見えにくくなる。原語のまま読むと、 著者が指さしているものが最初から目に入る。
1973年の刊行から半世紀。表紙には「OVER ONE MILLION COPIES SOLD」とある。
「何のために造られたのか」——第3章
本書の心臓部は、意外に早く、第3章「Knowing and Being Known」に来る。 章の冒頭が短い問答の連続になっていて、ここだけ文体が変わる。

私たちは何のために造られたのか。神を知るためである。 人生の目標は何であるべきか。神を知ることである。 イエスが与える「永遠の命」とは何か。神を知ることである(ヨハネ17:3)。 人生において最も良いもの、最も大きな喜びをもたらすものは何か。神を知ることである。
引かれるのはエレミヤ9章23〜24節だ。 知恵ある者は知恵を、力ある者は力を、富める者は富を誇ってはならない。 誇る者は、神を理解し、知っていることを誇れ。
そしてホセア6章6節。神が求めたのは、いけにえよりも神を知ることだった。
この畳みかけを読んだあとに、本書の中心的な区別が置かれる。 神について知ること(knowing about God)と、神を知ること(knowing God)は、まったく別のことである。
有名な政治家の経歴をすべて言える人が、その人物を知っているわけではない。 同じように、神についての情報をいくら蓄えても、神との交わりがなければ、 まだ神を知ってはいない——。
拍子抜けするほど単純な区別だ。けれども単純だからこそ、 以降の章を読むあいだじゅう、この問いが背中に張りついて離れなかった。
受肉——「神が神をやめること」ではない
第5章「God Incarnate」は、本書の中でも特に何度も戻った章だ。
パッカーはまず、受肉は理解しきれないと認める。 アタナシオス信条の言葉を引き、「神性を肉に変えたのではなく、人性を神へと取り込んだ」という 言い方以上に正確な定式は書かれたことがない、と述べる。 そして私たちの理解はここまでだ、と線を引く。

Incomprehensibly. 理解を超えて。 著者はこの語を受けて、思弁を避け、満ち足りて礼拝せよ、と書く。 説明を打ち切るのではなく、説明の限界そのものを礼拝の入口にする書き方だ。
続く「BORN TO DIE」の節で、議論は一気に十字架へ向かう。 ジェームズ・デニーの言葉が引かれる—— 新約は、贖いとの関係を離れて定義されるような受肉を知らない。 ベツレヘムではなく、カルバリ(十字架)こそが啓示の焦点である。
飼い葉桶の意味は、そこから続く一連の下降の中でしか分からない。 クリスマスを単独で読んではいけない、という釘の刺し方だった。
「彼は貧しくなられた」
同じ章の後半、p.63に「HE BECAME POOR」という節がある。 私が本書でいちばん長く止まったのはここだった。

神の子が貧しくなるとは何を意味したのか。 栄光を脇に置くこと。力を用いないこと。困窮と孤立と誤解と虐待を引き受けること。 そして最後に、肉体的な苦痛以上に、霊的な苦悶を伴う死。
そのうえでパッカーはこう書く。 クリスマスのメッセージとは、滅びた人類に希望があるということである。 父のみこころによってイエス・キリストは貧しくなり、 三十年後に十字架にかかるために、家畜小屋で生まれた。
さらに続く段落で、著者は読者を——というより自分が属する教会を——正面から刺す。 「クリスマスの精神」という言葉を、私たちは家族の楽しさ程度の意味で軽々しく使っている。 しかし本来それは、私たちのために貧しくなられた方の心を、生活の中で再現することを意味するはずだ、と。
そして、クリスマスの精神は、キリスト教的な俗物(Christian snob)の中には輝かない。
この一行に線を引いたとき、正直なところ居心地が悪くなった。 教理の本を読んでいたはずが、急に生活の話になっている。 本書がただの神学入門で終わらないのは、こういう転回が随所にあるからだ。
宥め——福音の心臓部
第18章「The Heart of the Gospel」は、本書でもっとも神学的に重い章だ。 主題は propitiation、日本語でいう「宥め」。

まず著者は、新約が言う「罪」の輪郭をはっきりさせる。 それは社会的な失敗や過失のことではなく、創造者である神に対する反逆であり、負い目である。 人と人のあいだで壊れているものはすべて、突き詰めれば罪に由来する。
そのうえで、キリストの死を語る新約の表現がいくつも並べられる。 和解(reconciliation)、贖い(redemption)、いけにえ(sacrifice)、 自己を与えること(self-giving)、罪を負うこと(sin-bearing)、血を流すこと(blood-shedding)。
著者はこれらを別々の理論として扱わない。 同じ一つの現実を、異なる角度から写した絵として読む。 語彙が多様であることを、思想が多様であることの証拠と見なすのは浅い誤りだ、と書いている。
そして次の章末で、議論はゲツセマネと十字架に届く。

なぜイエスは死を前にあれほど恐れたのか。 ルターは「かつてこの人ほど死を恐れた人はいない」と評したという。 殉教者たちが平然と死に向かった例はいくらでもあるのに、なぜこの方だけが震えたのか。
パッカーの答えは明快だ。イエスが恐れたのは死そのものではなかった。 罪とされ、その裁きを負うことを恐れたのだ、と。 父が手渡した杯とは、世界の罪の重荷だった。 十字架で味わったのは、本来私たちが受けるはずだった神の怒りだった。
ここまで読んで、第3章の問いに戻される。 神を知るとは、こういう神を知ることなのだ、と。
主権と、神の子とされること
本書には有名な章がもう二つある。
神の主権を扱う部分で、パッカーは主権が人間の責任を消すのではないと繰り返す。 むしろ、世界が偶然で動いているのではなく父の手の中にあるという事実こそが、 恐れではなく平安をもたらす。理屈としてはよく聞く話だが、 本書ではこれが第18章の宥めの議論と地続きになっているため、抽象論に落ちない。
そしてもう一つ、私が個人的に最も動かされたのが**神の子とされること(adoption)**の章だった。
救いの最高の特権は、罪が赦されることではない、とパッカーは言う。 義認(justification)も驚くべき恵みだが、それ以上に驚くべきは、 神が私たちを自分の家族として迎え入れたことである、と。
法廷で無罪を宣告することと、家に迎え入れることは、まったく違う出来事だ。 この章を読みながら、自分がずっと「私は神のしもべか」と問うてきて、 その手前にある「私は神の子か」という問いを飛ばしていたことに気づかされた。
神を知る人に現れるもの
「神を知る人にはどんな特徴があるか」を整理した箇所も、記憶に残っている。 挙げられるのは4つだ。
- 神のために大きな熱意を持つ
- 神について大きく考える
- 大きな大胆さを持つ
- 大きな満足を味わう
性格の話ではなく、実際に神を知っている人に現れる実(fruit)として説明されるのが要点だ。 自分にこれがあるかを点検すると、だいたい2番目で止まる。 神を小さく考えているとき、残りの3つは出てこない。そういう順序になっている。
記憶に残った言葉
本文から、趣旨として残ったものを挙げる。
- 神について知ることと、神を知ることは、まったく別のことである
- 神を知る人は、神について大きく考える
- 神の子とされることより高い特権はない
- ベツレヘムではなく、カルバリが啓示の焦点である
最後の一つは、クリスマスの読み方そのものを変えた。
どんな人に向かないか
正直に書く。
- 速く読みたい人には向かない。ピューリタンの影響を受けた長い息の文章で、 一文が長く、同じ主題が角度を変えて何度も戻ってくる。急ぐと何も残らない。
- 信仰にふれたばかりの人には、負荷が高い箇所がある。 神の属性を一つずつ掘り下げるため、前提知識がないと第2部あたりで失速しやすい。
- 教理を実生活と切り離しておきたい人にも勧めにくい。 本書は必ず「ではあなたはどう生きるのか」に着地する。逃げ道がない。
ただし、遅さは欠点とは限らない。 1章ずつ、間を空けて読むと、この速度がちょうどよくなる。 私は数か月かけて読んだ。
総評
読み終えて残ったのは、知識が一つ増えた感覚ではなく、視線の高さが少し変わった感覚だった。
いちばん具体的に変わったのは祈りだ。 以前は「〜してください」が中心だった。 本書を読んでからは、神の性質そのものを思いめぐらす時間が増えた。
- 主はどのような方か
- 今日、神の知恵はどこに現れているか
この二つを祈りの入口に置くようになって、 神を目的ではなく手段として扱っていた自分の態度に気づかされた。
教理を学ぶと冷たくなり、霊性は感情的なものだ——そういう分け方が広くある。 パッカーはその分割を認めない。真の神学は必ず礼拝を生む。 神の属性を学ぶほど神を愛するようになり、その愛が生活を変える。 半世紀読み継がれている理由は、このバランスにあると思う。
次に読むなら
- 『The Knowledge of the Holy』(A・W・トーザー) — 同じく神の属性を扱うが、 より黙想的・敬虔的な文体だ。本書が組織神学と牧会的適用を繋ぐのに対し、 こちらは祈りの言葉に近い。
- 『The Holiness of God』(R・C・スプロール) — 神の聖さという一つの属性を深く掘る。 当サイトでは『Who Is Jesus?』を紹介した。 キリスト論から入るならそちらが先だ。
- 『Delighting in the Trinity』 — 三位一体を、喜びと愛という角度から読み解く現代の一冊。 本書で神の属性を通読したあとに読むと、繋がりが見える。
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