信仰

マーティン・ロイド=ジョーンズ『Magnify the Lord』書評|神を大きくするのではなく、神の偉大さに目を開かれること

ロイド=ジョーンズ『Magnify the Lord』を読んだ記録。ルカ1章のマリアの賛歌から、「神を大きくする」とはどういうことか、祈りの順番がどう変わったかまで、書き込みを添えて紹介します。

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マーティン・ロイド=ジョーンズ『Magnify the Lord』の表紙。中央に太陽のような光が描かれ、下に「LUKE 1:46-55」とある

書籍データ

『Magnify the Lord』

著者
Martyn Lloyd-Jones(マーティン・ロイド=ジョーンズ)
出版社
Christian Focus Publications
刊行年
2013年

この記事の要点

  • — 「Magnify」は神を大きくすることではない。もともと大きい神を、私がようやく大きく見ることだ。
  • — マリアは自分の神を「私の救い主」と呼ぶ。彼女自身が救いを必要とする人間だった。
  • — マリアの賛歌は思っていたよりずっと急進的で、人間の誇りそのものを攻撃する。
  • — 感情は事実によって訓練される。神が遠く感じることと、神が実際に遠いことは別の問題だ。

マーティン・ロイド=ジョーンズの『Magnify the Lord』は、ルカ福音書1章に記されたマリアの賛歌、いわゆる「マニフィカト」を中心に据えた説教だ。20世紀を代表する改革派の説教者らしく、ロイド=ジョーンズはマリアの賛美をクリスマスに読む美しい歌としては扱わない。この短い賛歌の中から、福音とは何か、人はなぜ神を喜ぶべきなのか、本当の礼拝はどこから始まるのかを、しつこく掘り下げていく。

『Magnify the Lord』の表紙。中央に太陽のような光が描かれ、著者名マーティン・ロイド=ジョーンズと「LUKE 1:46-55」の文字がある

本の中心にあるのは、マリアの告白だ。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主なる神を喜びたたえます。」

この一文を読んで最初に目に入ったのは、「わたし」より「主」が先に来ているという事実だった。現代の信仰は、自分でも気づかないうちに「神が私に何をしてくださるのか」に集中しやすい。問題が解決するか、心が楽になるか、祈りが答えられるか、人生がうまく回るか。それを基準に神の善さを判断してしまう。

ところが、ロイド=ジョーンズが見つめるマリアの信仰は方向が逆だ。信仰の中心にいるのは、私ではなく神である。

望遠鏡で星を見ても、星が大きくなるわけではない

第1章の扉ページ。「1 MAGNIFYING GOD」の見出しの下に「And Mary said, My soul doth magnify the Lord…」とルカ1章の本文が続いている

「Magnify」という言葉も興味深い。これは神を大きくするという意味ではない。神は、人間が大きくして差し上げないと大きくならないような方ではない。私たちが賛美してもしなくても、神は神だ。問題は神が小さいことではなく、私の目に神が小さく見えていることだ。

そこで私は、この本を読みながら望遠鏡というイメージを思い浮かべた。望遠鏡で星を見たからといって、星そのものが大きくなるわけではない。もともと巨大だった星を、私がようやく大きく見るだけだ。神をあがめるということも似ている。神に栄光を足すのではなく、すでに無限に栄光ある神を、神らしく見はじめることだ。

これがロイド=ジョーンズの言う信仰の重要な出発点だと感じた。人の問題は、神を信じないことだけではない。神を信じていると言いながら、神をあまりに小さく考えていることのほうが、実際的な問題かもしれない。

自分の心配は大きく見え、神は小さく見える。人の言葉は大きく聞こえ、神の言葉は小さく聞こえる。お金と健康と未来の不確実さは巨大に見えるのに、神の主権と摂理は頭の中の教理として残ってしまう。そうなれば、当然のように恐れが大きくなる。

逆に、神が大きく見えはじめると、問題が必ず消えるわけではないけれど、問題の大きさが変わる。状況が変わったからではなく、それを見る基準が変わるからだ。その意味で「主をあがめる」とは、単なる礼拝の表現ではなく、生活全体を並べ直す行為だ。

マリアは自分の神を「私の救い主」と呼ぶ

ロイド=ジョーンズが特に強調するもう一つの核心は、マリアが自分の神を**「私の救い主」**と呼んでいるという事実だ。

この表現はかなり重要だ。キリスト教の歴史の中で、マリアは時に高く上げられすぎてきた。しかしロイド=ジョーンズは、マリア自身が救いを必要とする人間だったことを強調する。マリアが偉大なのは、罪のない超越的な存在だからではなく、神の恵みを信じて受け取った人だからだ。

だから、記憶に残る最初の一文は当然これになる。

「わたしの魂は主をあがめ。」

信仰は、神についての知識を積み上げて終わるものではない。神を本当に知れば、魂の反応が起こるということだ。

二つ目は、

「わたしの霊は救い主なる神を喜びたたえます。」

ここにはキリスト教信仰の情緒的な次元がある。ロイド=ジョーンズは感情主義を警戒したが、感情のない信仰を正常だとも考えなかった。福音を本当に理解したなら、驚きと感謝と喜びが生まれるはずだ。

三つ目に覚えておきたいのは、マリアのこの告白だ。

「この卑しい女にも目を留めてくださったからです。」

福音は、人間が神へ登っていく話ではなく、神が低いところにいる人間を顧みてくださる話だ。

恵みと憐れみのあいだ

『Magnify the Lord』29ページ。恵みと憐れみを扱う箇所に鉛筆で線が引かれ、ページの端にクリップが留めてある

マリアの賛美の中で繰り返される、もう一つの大切な宣言がある。

「その憐れみは、主を畏れる者に代々限りなく及びます。」

キリスト教信仰の中心にあるのは、人間の功績ではなく神の憐れみだ。

そして最後に握りしめることになるのが、

「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ。」

マリアの賛歌は、思っていたよりずっと急進的だ。神は人間社会の価値体系をそのまま認めてはくださらない。人間が高いと思っているものを低くし、誰も注目しない人を取り上げて用いられる。

『Magnify the Lord』56-57ページの見開き。「Filled」の小見出しがあり、ローマ書7章やマタイ5章6節を引く本文が続く。左右のページにクリップが留めてある

この箇所で、ロイド=ジョーンズの説教が個人の敬虔さだけにとどまらないところが良いと思った。福音は人間の誇りを攻撃する。知識も、お金も、社会的地位も、宗教的な達成さえも、神の前で人間を誇らしくすることはできない。神の恵みの前で、人間はみな手ぶらだ。

それでも恐れは残るのか

ここで一つの疑問も生まれる。神を大きく見れば、本当に私たちの恐れや不安は消えるのだろうか。

現実はそう単純ではない。神が主権者だという事実を十分に知っていても、恐れることはある。聖書をたくさん知り、神学的に神の摂理を確信していても、夜になれば心配が押し寄せてくることがある。

だから「神を大きく見なさい」という言葉を誤って使えば、苦しんでいる人に「あなたの信仰が足りないからだ」と裁く言葉になりかねない。

『Magnify the Lord』92ページ前後の見開き。ジョン・バニヤンの『Grace Abounding』に触れる箇所と、「Mary’s Reaction」「Questioning」「Resignation」の小見出しが並ぶページ

しかしロイド=ジョーンズの神学全体を思えば、彼の意図はそんな単純な精神論にはないと思う。実際、この本にはマリアが天使の言葉を前にしてまず戸惑い、問い、疑ったという箇所が出てくる。喜びに満たされることから始まったのではなく、つまずくことから始まったのだ。

神を大きく見るとは、感情を無理やり変える自己暗示ではない。みことばを通して、神がどういう方なのかを繰り返し見つめることだ。

ここに、ロイド=ジョーンズらしい牧会的な現実感覚がある。私たちの感情は、事実によって訓練されなければならない。私が感じていることが、いつも現実のすべてではない。神が遠く感じられることと、神が実際に遠くにおられることは別の問題だ。私が見捨てられたと感じることと、神が実際に私を見捨てられたことは違う。

祈りの順番を変えてみた

この本を読んで実生活で試したことは、とても単純だった。祈りはじめるときに、いきなり問題から話さないことだ。

私たちは祈るとき、あまりに早く要求事項に入る。「神様、これを解決してください。あれを守ってください。これが心配です。」

そこで、まず神がどういう方なのかを思い浮かべるようにした。

神は創造主である。神は主権者である。神は善い方である。神はキリストにあって罪人を救われた。神は私が知らなかった過去にも働かれ、私が知らない未来にも神であり続ける。

そうやって数分を過ごすと、不思議なことに祈りの題目そのものが変わる。問題がなくなるわけではない。けれど、問題を見る位置が少し変わる。

これが私の理解した「Magnify the Lord」だ。神を使って問題を小さくするのではなく、神を見つめているうちに、問題を神の大きさの中で見直すようになるということだ。

パイパーとの違い、そして最後に残る問い

この本を読みながら、ジョン・パイパーの『Desiring God』も自然に思い浮かんだ。パイパーが「私たちが神に最も満足するとき、神は最も栄光をお受けになる」という命題で神への喜びを強調するなら、ロイド=ジョーンズはマリアの賛美を通して、すでにそれと近い方向を示している。二人とも、神を義務的に仕える宗教では満足しない。神を喜ぶことが大切なのだ。

ただ、ロイド=ジョーンズから感じられる空気は少し違う。彼は人間の内面よりも先に、神の客観的な救いの出来事を見つめる。「喜べ」と感情を命じる前に、「あなたが喜ぶべき理由が何なのかを見なさい」と言うほうに近い。

この点が私は良いと思った。キリスト教の喜びは、漠然とした前向き思考ではないからだ。

マリアが喜んだ理由も、自分の状況が楽だったからではない。むしろ彼女の前には、抱えきれない現実が待っていた。説明しがたい妊娠、人々の視線、ヨセフとの関係、これから起こることへの不確かさ。それでもマリアは神を喜ぶ。環境のためではなく、神のためにだ。

この本でいちばん深く残ったのは、まさにこの点だった。

信仰生活が長くなるほど、神よりも神の贈り物のほうを欲しがる瞬間が増えていくのではないかと思う。平安、健康、成功、守り、答え。もちろん、それらを求めること自体は間違いではない。

けれど、どこかで問わなければならない。

神が何もくださらないように感じられる瞬間にも、私は神ご自身を喜べるだろうか。

『Magnify the Lord』は、まさにこの問いの前に読者を立たせる。

この本は、信仰生活が無気力になったと感じている人に特に勧めたい。神についての知識は多いのに喜びが消えた人、祈りが自分の問題だけで埋まっている人、心配のほうが神より大きく見える人に向いている。分量は大きな神学書に比べれば負担にならないが、問いは決して小さくない。

結局、ロイド=ジョーンズがマリアの賛美を通して見せる信仰は、「自分を大きくする信仰」とは正反対だ。福音は、自分がどれほど特別な人間かを発見する話ではない。神がどれほど大きい方かを発見する話だ。

そして神が大きくなるほど、不思議なことに人間は自分の場所を見つける。すべてを自分で制御しなければならないという重荷から少しずつ降り、必ず認められなければならないという欲望からも自由になる。世の評価も絶対的なものではなくなる。

神を大きく見るとは、結局、神を大きくすることではない。もともと大きい神を、ようやく大きく見ることだ。

だから本を閉じた後も、マリアの最初の告白が残り続ける。

「わたしの魂は主をあがめ。」

信仰の回復は、複雑なところから始まるのではないのかもしれない。自分の問題を見つめ続ける目を上げて、神をもう一度見ること。そして静かに告白すること。

主よ、わたしが主を大きく見られるようにしてください。

こんな人におすすめ

  • — 神についての知識はあるのに、喜びが消えたと感じている人
  • — 祈りが自分の問題だけで埋まっている人
  • — 心配のほうが神より大きく見えてしまう人
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本記事の内容は執筆時点の情報および筆者個人の読書体験に基づく感想・評価です。 書籍の価格・版・入手可否は変動します。引用は著作権法第32条に基づく範囲で行い、出典を明記しています。 詳しくは免責事項および著作権・引用についてをご確認ください。