ピューリタンたちをヒマラヤ山脈にたとえるなら、ジョン・オーウェンはその連なりの中でもエベレストだと思う。それくらい彼の著作は深く、正確で、そして頑固なまでに一つのことを突き詰めている。そのオーウェンの著作の中でも、核心中の核心と言えるのが、今日紹介する「罪殺し(mortification)」を扱ったこの本だ。

手元にあるのは Christian Heritage 版で、J.I. パッカーの序文が付いている。表紙には錆びた釘が何本も散らばっていて、その間に小さく「the misdeeds of the body die」「the spirit lives」と刷り込まれている。ローマ書8章13節そのものが、装丁のデザインになっているわけだ。表紙は角が擦れてよれている。それだけ何度も開いた本だということでもある。
私はこの本を通して、聖化をめぐる長い悩みと彷徨に、ようやく終止符を打てるほどの助けと気づきをもらった。
聖化は単なる意志の問題ではないということ。決断の問題でもないということ。聖化の根本の主体は聖霊であるということ。それを深く認めるところから、聖化=罪殺しは始まるのだということ。こういうことを本から学べたおかげで、まともな聖化の道を歩き出すのに決定的な助けになった。
図書館のどこかの片隅で見つけたこの小さな本が、自分にこれほど大きな響きと感動を与えてくれるとは、正直まったく思っていなかった。今では私はオーウェンの全集を持っているけれど、それでもこの薄い小冊子は、膨大な全集の分量の中から最も大切な部分を抜き出した最高の一冊だと言いたい。
1656年、オックスフォードの説教から
この本の来歴は、序文にきちんと書いてある。

ここにあるとおり、オーウェンが「discourse(論述)」と呼んだこの本は、ローマ書8章13節「もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きる」という一節についての牧会的な説教をまとめたものだ。説教はオックスフォードでなされ、1656年に出版された(1658年に増補第二版)。ちなみに彼は17世紀イングランドを代表する改革派神学者・牧師で、オックスフォード大学の副総長も務めた人物だ。
同じページには、こんな面白いたとえも出てくる。ジェーン・オースティンの小説は「まず4回目に読むべきだ」と言われる、つまり4回読んで初めてその真価が見えてくる、と。オーウェンの説教も同じで、繰り返し読んで初めて、その掘り下げの深さが伝わってくる、というわけだ。実際そのとおりだった。
そして重要なのは、この本のテーマが神の聖化のわざの「否定的な側面」だという点だ。カルヴァン以来の改革派の教師たちは、聖霊の聖化のわざを、積極的な面=vivification(徳を育てること)と、否定的な面=mortification(罪を殺すこと)に分けて説明してきた。だから「罪殺し」は暗い自己虐待の話ではなく、聖化という一つのわざの片翼なのだ。
パッカーの序文が、読む姿勢を整えてくれる
この版のありがたいところは、パッカーの長い序文だ。彼は「現代人がオーウェンを読むには、いくつか頭の調整が要る」と言って、4つの点を挙げていく。

一つ目、神の聖さが今日あまりに軽く扱われていること。神の愛と憐れみが感傷的に語られ、結局「気のいい叔父さん」みたいな神を思い描いてしまう、という指摘は痛い。
二つ目、欲望=動機の重さが十分に強調されていないこと。「欲望こそ心の指標であり、動機こそ行為の善悪を決める試金石だ」というのがここでの主張だ。心が間違っていて、畏れも愛も謙遜も欠けているなら、外側でどんな正しいことをしても神の目には正しくない。パリサイ人に対するイエスの言葉がまさにそれだった。
そして15ページ側にはこう書かれている。聖書がクリスチャンに罪を殺せと言うとき、その意味は「悪い習慣を断ちなさい」ということだけではなく、「罪深い欲望と衝動そのものから命を抜き取れ」ということだ、と。オーウェンが本全体で扱っているのはまさにこれだ、と。この一文で本の射程がはっきりする。
三つ目、自己吟味の必要。人間の心の欺瞞と、自分を知らないことの危うさ。オーウェンは「私たちは絶えず自分を騙している、あるいは騙されている」と見るリアリストだから、聖書によって自分を見張り、吟味しなければ、どの心の習慣を殺すべきかすら分からないと言う。パッカーはここで皮肉を書いている。専門の心理学者たちが隠れた動機や無自覚の動機をこれほど重視する時代に、クリスチャンの側が自分や互いの自己欺瞞を疑おうとしないのは実に皮肉だ、と。
四つ目、神の人生を変える力が十分に強調されていないこと。
パッカーの序文で忘れられないのは、彼自身の若い日の失敗談だ。

彼が若い頃に聞いた「自己否定」の教えは、carnal self(肉なる自己)=自己意志・自己主張・自己中心を否定せよという聖書の意味ではなく、personal self(人格としての自分)を明け渡して、キリストが自分の代わりに考え、意志してくれる状態になれ、というものだった。それについてパッカーはこう書いている。そんなふうに言われると、それは新約聖書の言う「内住のキリストの働き」というより「悪霊憑依の公式」に近い、と。ここは私もページを囲って線を引いた場所だ。
これは笑い話ではなくて、「熱心なのに間違った聖化」がどれほど人を消耗させるかという証言だと思う。だからこそ、この序文の後に本文へ入っていく流れがよくできている。
罪殺しの主体は聖霊
本文に入ると、オーウェンはすぐ核心を打つ。

20ページの見出しはこうだ。「この務めを果たさせる主たる作用因は聖霊である」。そして続く。他のすべての罪殺しの方法は空しい。あらゆる助けは私たちを無力なまま置き去りにする。それは聖霊によってなされなければならない。 ここに線を引きながら、私は何度も止まった。
同じページには、この本全体のテーゼも書かれている。「罪が人を罪に定める力からは確かに解放された、最もすぐれた信者であっても、生涯にわたって、内に住む罪の力を殺すことを自分の仕事とすべきである」。信じたから終わり、ではない。むしろそこから始まる。
さらにオーウェンは、自分の力による罪殺し(mortification from a self-strength)、自己考案の方法によって進められる罪殺しは、世のあらゆる偽りの義の魂であり実体だ、と切って捨てる。これは彼の論述の第二の原理だ、と自分で書いている。
つまり罪殺しは、歯を食いしばる話ではない。歯を食いしばるだけの罪殺しこそ、彼が最も執拗に批判する対象なのだ。
「罪を殺すのは、生きている者の仕事だ」
では主体が聖霊なら、人は何もしないのか。そうではない。ここがオーウェンの緊張感だ。

81ページにこうある。罪を殺すのは信者の、信者だけの仕事である。罪を殺すのは生きている者の仕事だ。 死んでいる者、つまり不信者においては(どんなに立派な人であれ)罪は生きているし、これからも生きる、と。そしてそれは信仰のわざであり、信仰に固有のわざである。もし一つの道具でしか果たせない仕事があるなら、その道具を持たない者がそれをやろうとするのは最大の狂気だ、とまで言う。だから私もページの下に「faith」と書き込んだのだと思う。
その手前の段落も厳しい。キリストへの関心をまず得ないまま罪殺しに挑む人がどうなるか。それは彼らを欺き、頑なにし、滅ぼす。だから世の中で最も救いようのない罪人は、良心に責められてこの道に入り、実を結ばず、キリストを見出さないまま去っていった人たちの中に多い、と。
行動だけを直そうとするやり方では、罪はしばらく息を潜めるだけで死なない、という話は、まさにこの箇所と重なる。
根を枯らす
罪を放っておくとどうなるか。オーウェンは罪の「進行性」を執拗に描く。

罪はまず控えめに、ほんの最初の動きや提案としてやってくる。けれど一度心に足場を得ると、その地歩を固めて、さらに先へ押し進む。しかも魂は、自分がすでに神から離れ落ちる入り口を作ってしまったことに気づかない。これ以上進まなければ大丈夫だろう、と思ってしまう。
そして31ページの真ん中に、この一節がある。これを防げるものは、罪殺しのほかにない。それは罪の根を枯らし、毎時間その頭を打つ。 続けて、世界で最も優れた聖徒であっても、この務めを放棄すれば、ほかのどんな人にも劣らないほど忌まわしい罪に陥るだろう、と書いている。
その下には、なぜ聖霊と新しい性質が私たちに与えられているのか、という理由が続く。それは罪と欲に対抗する原理を内に持つためだ、と。「肉は御霊に逆らって欲する」――ではどうなのか。「御霊もまた肉に逆らって欲する」(ガラテヤ5:17)。この対比が線で囲まれているのを見ると、当時の自分がどこで息を吹き返したのかが分かる。
私がいちばん感銘を受けたのも、この「実」より「根」を見よという態度だった。誰かにきつい言い方をしてしまった後で「次は優しく言おう」と決心するだけでは足りない。なぜあの人の前で特に腹が立ったのか、自分の意見が無視されたと感じたのか、尊重されたい欲求が愛より大きくなっていたのか、を問わなければならない。オーウェンは罪を、単なる規則違反ではなく、神以外の何かを命の源として掴んでいる心の歪みとして見る。現代の心理学の言葉で言えば、行動の下にある欲求と自動思考を追跡する作業に近い。ただしオーウェンは、その根を「自己肯定感の不足」あたりで止めず、神との関係にまで押し込んでいく。
実際に生活で試してみると、罪をなくすという大きな決心よりも、繰り返される瞬間を観察することのほうが先だった。一日の終わりに「今日どんな過ちを犯したか」だけでなく、「今日、何を失うことを恐れたか」「誰の承認がないと耐えられなかったか」を書き出してみた。すると苛立ちの底に、疲れだけでなく、コントロールを手放したくない心があることが見えてきた。それに気づいてからは、単に怒りを我慢するのではなく、自分の計画が狂っても世界は壊れないという事実を祈りの中で受け取ろうとした。罪殺しは感情を押し潰す作業ではなく、偽りの信念を福音の真実に置き換える作業だった。
十字架に釘づけにされた罪
そして、この本でいちばん鮮烈なイメージが67ページにある。

十字架に釘づけにされた人は、最初こそもがき、激しく叫ぶ。けれど血と力が失われていくにつれて、もがきはかすかに、まれになり、叫び声は低くかすれて、ほとんど聞こえなくなる。罪もそれと同じだ、とオーウェンは書く。最初に情欲と取っ組み合うとき、それは激しく暴れて満足させろと叫ぶ。けれど罪殺しによってその血と力が抜かれていくと、動きはまれに、弱くなり、心の中でほとんど聞こえなくなる。ときどき断末魔のように激しく見える瞬間があっても、それはすぐに終わる。
続く段落ではローマ書6章6節が引かれる。罪は十字架につけられ、そこに釘づけにされている。何のために。死のからだが滅ぼされ、罪の力が弱められ、少しずつ廃されていくためだ。「これからはもう罪に仕えることがないように」。
この「little and little(少しずつ)」という言い方に、私はずいぶん救われた。罪殺しは一発の決断ではなく、血が抜けていく過程なのだ。ちなみに表紙に散らばっていたあの釘は、この箇所と無関係ではないだろうと勝手に思っている。
それでも残る問い
読みながら「すべての内的葛藤を罪の言語で解釈していいのだろうか」という疑問は残った。17世紀ピューリタンの強烈な自己省察は魂を目覚めさせるけれど、うつや強迫的な罪責感を抱えた人には危険に働きうる。トラウマによる過敏反応、神経系の疲労、治療が必要な精神的苦痛までを不信仰と断じるなら、それはオーウェンの教えの誤用だ。
また、罪を個人の内面にだけ絞ると、貪欲を煽る経済構造や差別を再生産する共同体の罪が見えにくくなる。罪には個人の習慣だけでなく、制度と文化の中で集団的に働く顔もあるからだ。
アウグスティヌスの『告白』と並べると、両者は欲望の根を神との関係の中で読み解く点でよく似ている。ただアウグスティヌスが記憶と時間、愛の屈折を自伝的に見せるのに対し、オーウェンは魂を診察する医者のように症状と処方を緻密に分類していく。逆に、恥よりも自己受容を強調する現代心理学の本と並べて読むと緊張が生まれる。オーウェンは「罪をあまりに簡単に慰めるな」と言い、現代心理学は「自分をあまりに残酷に裁くな」と言う。私は、どちらかを捨てる必要はないと思っている。健全な悔い改めは自己嫌悪ではないし、健全な自己受容も責任逃れではない。十字架の前では、罪を正直に認めながら、その罪が自分という存在の最終的な名前ではないということを、同時に学べる。
どんな人に勧めたいか
この本は、早く慰められたい人よりも、自分の繰り返される欲望と習慣を深く理解したい人に勧めたい。特に、信仰生活は長いのに同じ怒り、情欲、比較意識、承認欲求の前で転び続けている人には、鋭い鏡になってくれる。ただし心がひどく疲れている人や、宗教的な強迫に苦しんでいる人は、一人で読むより信頼できる牧師やカウンセラーと一緒に読むほうがいい。
『罪殺し』は快適な本ではない。文章は古く、論証は密で、読者が握りしめていた自己弁明をしつこく剥がしていく。けれどこの本の最終目的は、人を罪責感の中に閉じ込めることではない。罪の力から自由にして、神と隣人をもっとまっとうに愛せるようにすることにある。罪殺しは人生を干からびさせる作業ではなく、偽りの欲望が占めていた場所に、もっと良い愛が育つようにする作業だ。まさにその点で、オーウェンの古びた文章は今も驚くほど生きている。
線だらけ、書き込みだらけになったこの小さな一冊を眺めるたびに、そう思う。
