ウォーフィールドの本は、硬い。
プリンストンで自由主義神学と正面からぶつかった人だ。改革派神学の砦であり、優れた弟子を数多く残した教師でもあった。その彼がイエス・キリストについて語った説教集となれば、読む価値は十分にある。
『The Saviour of the World』は組織神学の教科書ではなく、説教集だ。十九世紀末から二十世紀初頭のアメリカ長老教会神学を代表したウォーフィールドが、プリンストン神学校のチャペルで語った九編を束ねて一九一三年に出した。放蕩息子のたとえ、ただイエスのみ、神の小羊、神の測りがたい愛、パウロの福音、栄光を受けたキリスト、復活されたイエス、契約の福音、受肉にならう生き方——この順で進む。
厳格な弁証家が、説教壇に立つと
ウォーフィールドといえば、聖書の霊感と無誤性を弁証した厳格な学者、という印象が先に来る。だから本を開く前は、冷たくて論争的な文章を予想しがちだ。
ところが、この説教集で出会うウォーフィールドは意外なほど温かい。本文を扱う手つきは精密だけれど、その精密さは知識をひけらかすためのものではない。一つの単語の意味を最後まで掘り下げておいて、結局は読者の視線をキリストのほうへ向け直してしまう。神学者が説教するとき、教理がどうやって礼拝と慰めに変わるのか。それが目に見える本だ。

「世界」という言葉の広さ
本の中心には、タイトルそのままの宣言が置かれている。イエス・キリストは世界の救い主である、と。
ここで「世界」という語がかなり効いてくる。キリストはある民族や時代、特定の宗教集団の中に囲い込まれた救い主ではない。その救いはユダヤ人と異邦人、学のある者と無学な者、道徳的に尊敬される人と恥ずべき過去を背負った人の境界を越えていく。福音は人間がこしらえた柵をまとめて壊してしまう。
覚えておきたい言葉を、いくつか書き抜いておいた。
イエスのうちに、私たちは世界の救い主と、救われた世界とを共に見る。
世界の悪よりも大きな事実は、キリストが世界を贖われたということだ。
私たちは決して、世界に向かって絶望してはならない。
救いはただイエスの名のうちにある。
「世界に絶望するな」という一言
いちばん残ったのは、この「世界に絶望するな」という勧めだった。
新聞を開いたり、ネットで事件を追ったりしていると、世の中は悪くなる一方だという気分に沈みやすい。戦争と暴力、貪欲と憎悪を眺めていると、福音が本当に歴史を変えられるのか怪しくなってくる。そこに教会の分裂や堕落まで重なると、世界はもう引き返せない地点まで来てしまったように見える。
だがウォーフィールドは、世界の罪よりキリストの救いのほうが大きいと言う。世界が悪いという事実だけを見つめていれば、落胆するしかない。しかし歴史の主人がキリストであり、その方が十字架と復活によってすでに決定的な勝利を収めているのなら、話はまるで変わる。教会の成否が人間の力量にかかっているなら未来は悲観的にならざるを得ないけれど、救いを成し遂げるのが神なら、絶望は最終結論になれない。
門は広く開いている。ただし門は一つだ
ここで言う「世界の救い」は、全員が自動的に救われるという万人救済論とは違う。
彼は使徒の働き4章12節を握って、キリストの外に救いはないと断言する。すべての宗教が結局は同じ頂に達するという発想も、人間の誠実さが救いの根拠になり得るという楽観も、受け入れない。救いの範囲は世界大だが、その道はキリストだけだ。門は広く開かれているが、門そのものが何個もあるわけではない。

線を引いた箇所がある。天にも地にも地の下にも、救いの巻物を開き封印を解ける者が誰もいなかったとき、この方だけがふさわしいと認められた——という一節だ。ふさわしいのは一人しかいない、という語り口が強い。
掴む力より、掴まれている事実
かといって、彼は救いを人間の選択に委ねられた可能性として語るわけでもない。
ヨハネ福音書6章38〜39節を説明しながら、父が子に一つの民を与え、子はその中の一人も失わずに終わりの日によみがえらせる、と強調する。子の働きは救われるチャンスを提供して終わりではない。キリストは父から託された人々を、実際に、完全に、最後まで救う。
この部分で改革派の輪郭がくっきり出る。選びと契約は、救いの範囲を狭めるために考案された冷たい論理ではない。救いが人間の気まぐれな意志ではなく、神の誠実さにかかっているという慰めだ。私がキリストを掴んでいる力より、キリストが私を掴む力のほうが重い。信仰が揺らぐ日にも救いの土台が崩れないのは、その土台が自分の決心ではなく、父と子のあいだの永遠の約束だからだ。
家に残った兄のほうを見る
放蕩息子のたとえについての説教も印象に残っている。
私たちはふつう、家を出た弟にばかり目を向ける。だがウォーフィールドは、家にいながら父の心を知らなかった兄も一緒に見る。弟は露骨に父から離れ、兄は従順という服を着たまま心で父から遠ざかった。一方は放蕩によって自分をさらけ出し、もう一方は自己義認によって自分を隠した。

たとえの前半で描かれる転落は容赦がない。弟は豚を飼っただけでなく、豚と一緒に餌をあさるところまで落ちた。ウォーフィールドはここで、主が罪人を庇うために「実はそこまで悪くない」と塗り直すことは決してしない、と念を押す。彼らは言葉にならないほど悪い。主の弁明は、それでも彼らは救われうるし、自分はそのために来たのだ、というものだ。
この箇所を読みながら、教会に長くいるという事実は父を愛している証拠にはならないな、と思った。奉仕をしてみことばを学び、表向きは真面目に生きていても、恵みを受ける他人を面白くなく思うなら、兄の位置に立っていることになる。自分が守ってきた規則を根拠に神へ報酬を要求するなら、従順すら取引になる。放蕩息子の話は放蕩な人だけに必要な物語ではなく、自分の信仰歴を義に仕立てる宗教人にも必要な福音だ。
教師ではなく、小羊が要る
「神の小羊」の説教では、イエスの働きが教訓や模範である以前に犠牲の供え物だという点が押し出される。
キリストは優れた道徳教師であり、完全な生の手本でもある。だが人間にとって最も切迫した問題は、知識不足や教育の欠如ではなく、神の前での罪責だ。だから私たちに要るのは、教えを授ける師ではなく、罪を負う小羊のほうだ。
この主張は現代にも刺さる。今はイエスを、愛と包容を説いた賢者としてだけ受け取ろうとする傾向がある。倫理的な教訓は歓迎するのに、代償の死は居心地が悪い。しかし十字架が単なる愛のデモンストレーションにすぎないなら、人間の根本問題は何も解決しない。ウォーフィールドにとってキリストの血は象徴的な飾りではなく、神と罪人のあいだに客観的な和解を成立させる福音の中心だ。

「栄光を受けたキリスト」の章でも、同じところに軸がある。イエスが人となられたのは単に死ぬためではなく、死の苦しみを耐え抜くためだった。そしてその恐ろしい杯は、人間のために益を確保するという目的のもとで飲み干された。ユダヤ人キリスト者にとってつまずきだったのは、まさにその十字架だった、と彼は書く。神の解釈者としてのイエス、神の使者としてのイエスなら、彼らは喜んで受け入れられた。呪いの木にかかった打ち砕かれた受難者としてのイエスに、どうしても折り合いがつかなかったのだ。
引っかかったところ
とはいえ、読みながら疑問が残る箇所もある。
ウォーフィールドは、世界がやがてキリストに征服されるという強い楽観を見せる。その見通しには、福音が歴史のなかで次第に広がって世界的な勝利を収めるという後千年王国説的な期待が濃く漂う。二度の世界大戦と全体主義、そして現代社会の急速な世俗化を知っている読者には、この確信はいささか明るすぎると映るかもしれない。
「世界の救い主」という表現を、世界の圧倒的多数が歴史の内側で回心するという展望にまで広げられるのか。ここも議論の余地がある。ヨハネの黙示録やイエスの終末説教には、福音の勝利だけでなく背教と迫害、審判も並んで現れる。救われた世界という荘厳な光景は魅力的だが、本文がどこまでその楽観を支えるのかは慎重に見たい。
それでも、彼の期待を単なる時代的楽観主義として片づける気にはならない。ウォーフィールドが信頼したのは人間文明の進歩ではなく、神の救う力だ。教会の成果が目に見えにくい瞬間にも、十字架は失敗しないと確信していた。目の前の統計より、神の約束のほうを大きく見たということだ。

彼が歴史の事実にこだわるのも、同じ理由からだ。パウロは「天に着座されたイエス・キリストを覚えよ」ではなく「死者のうちから復活されたイエス・キリストを覚えよ」と書いた。だから復活したかどうかは重要ではない、とは言えない。キリスト教はその歴史的事実とともに立ち、ともに倒れる。イエス抜きのキリスト教は、そもそもキリスト教ではない——そう突き放す文章は、百年前のものとは思えないほど鋭い。
読み終えて
同じ主題を扱った本と並べるなら、ジョン・ストットの『キリストの十字架』が代償の意味を広く現代的に説明するのに対し、ウォーフィールドのこの本は同じ真理を説教の言葉で聞かせてくれる。彼自身の『Faith and Life』と比べれば、どちらも学問と敬虔が切り離されないことを示している点は共通で、ただ『The Saviour of the World』のほうがキリストの人格と救いの働きにより集中している。
読み終えて、福音を個人の心を慰める小さな知らせとしてだけ考えていた自分の態度を振り返ることになった。キリストは私の不安をなだめてくれる方にとどまらない。罪人を実際に引き上げ、教会を保ち、ついには歴史をご自身の目的へ到達させる王だ。個人の救いは、巨大な神の国の一部分でしかない。
本文を深く掘る説教とは何かを知りたい人、キリスト中心の説教を準備する牧師や神学生、改革派の救済論を冷たいと感じてきた読者に勧めたい。文体と論証には古さがあるけれど、キリストへの畏敬は古びていない。
『The Saviour of the World』は世界の闇を否定しない。むしろ罪の現実を正直に認めたうえで、それに最後の言葉を言わせない。最後の言葉は罪でも、死でも、人間の失敗でもない。復活されたキリストのものだ。世界がどれほど暗く見えても、キリストは依然として世界の救い主であり、まさにその一点のゆえに、信じる者には絶望する権利がない。
