聖書の言葉の権威はどこから生まれるのか。その答えは教理にある。教理が明確に確立されるとき、聖書の言葉の権威も明確に立つ。
聖書の言葉は最終的な啓示なのか。それとも、今日もなお特別な啓示が続いているのか。この問いは、いつも私たちについてまわる。今この時代にも、イエスに会った、イエスの声を聞いた、と言う人があまりに多いからだ。そうした証しを見聞きするたびに、聖書が記されたあとにも啓示の言葉は注がれ続けているのではないか、という疑問が生じていた。そこで手に取ったのが『The Final Word』だった。
終わりのない問いに向き合う本

O・パルマー・ロバートソン(O. Palmer Robertson)の『The Final Word』は、1993年に Banner of Truth から初版が出た。副題は A Biblical Response to the Case for Tongues and Prophecy Today。賜物中止説の立場から書かれた聖書神学的な論証だが、単なる中止説の弁証書ではない。ロバートソンは改革派の神学者らしく、体験が実際に存在するかどうかよりも、聖書がそれをどう規定しているかを先に問う。構成は、預言、異言、現代の啓示、啓示継続論への批判、そして結論と続いていく。
最初はタイトルを見て、ありふれた中止説の弁証書だろうと思っていた。だが読み進めるうちに、ロバートソンが本当に語りたいのは異言そのものではないと気づく。核心はむしろ、この問いにある。
「神がご自分の民に与えられた、最終的で権威ある言葉とは何か」
この問いは、思ったより重い。
教会で誰かが「神が私にこう語られた」と言うと、その瞬間、不思議な権威が生まれる。相手は反論しがたくなる。人間の意見なら議論できるが、神の言葉だと宣言されたとたん、話が変わってしまうのだ。
新約の異言と歴史的文脈

ロバートソンがまず主張するのは、新約の異言は単なるエクスタシーの音声ではなかった、ということだ。彼によれば、新約の異言は啓示的な性格を持ち、実際の言語であり、個人の霊的満足のためではなく教会のために与えられ、救済史の新しい段階が始まったことを示すしるしだった。使徒の働きとコリント人への手紙第一の異言を、こうした救済史的な枠組みのなかで解釈するところに、本書の重要な特徴がある。
読みながら、心に留めておきたい文をいくつか圧縮してみると、こうなる。
「御霊の賜物は個人の霊的な満足のためではなく、キリストの教会のために与えられる」
「啓示はそれ自体が目的ではなく、神がご自身を知らせるための手段である」
「新約の異言は、啓示と切り離して理解することはできない」
そして、本全体を貫く一文がある。
「The Christ of the Scriptures is the Final Word.」
「聖書のキリストが、最終的な言葉である」
実のところ、この一文だけで本全体を言い尽くしていると言っても過言ではない。Banner of Truth も本書を紹介する際、同じ命題を中心的な主張として掲げている。
預言と異言を定義しなおす

ここから ロバートソンの論理は一段と強くなる。
彼は「聖霊は今日、何もしていない」と主張しているのではない。自然と摂理を通した神の自己啓示が消えたという話でもなく、神が聖書の言葉を通して今の私たちに語っておられない、という意味でもない。彼が終わったと言うのは、聖書とは別に与えられる、新たに霊感された誤りなき権威的啓示のことだ。この区別を見落とすと、賜物中止説を「神はもう沈黙している」という主張と取り違えてしまいやすい。ロバートソン自身が、この違いをはっきり区別している。
この部分が、個人的にはいちばん良かった。
聖書の充足性という言葉を、私は長いあいだ「聖書にすべての情報が入っている」という曖昧な意味で理解していた。だが聖書は、今日の昼食に何を食べるべきかは教えない。どの会社に就職すべきかも直接は言わない。誰と結婚すべきか、その名前を教えてくれることもない。
聖書の充足性とは、そういう意味ではない。
救われ、神を知り、その方を喜ばせて生きるために必要な神の啓示が、キリストと聖書のうちに十分に与えられている——そういう意味に近い。
そう考えるようになると、信仰生活でよく使う「神の声を聞かなければならない」という表現も、少し違って聞こえてきた。
私は神の声を待ちながら、すでに与えられている神の言葉を軽んじてはいないだろうか。
聖書を一日10分も読まずに特別な啓示を求め、みことばの明確な命令には従わずに、心の内側の感覚を神のみこころと呼ぶ。それはどこかちぐはぐではないか。
ロバートソンの本は、まさにこの点を鋭く突いてくる。
啓示継続論との対話

とはいえ、本書の論証すべてに反論の余地がないわけではない。
とりわけ ウェイン・グルーデム(Wayne Grudem) のような賜物継続論者は、現代の預言を旧約預言者の誤りなき預言と同じ水準では見ていない。グルーデムは新約教会の預言を、聖書と競合する新しい正典的啓示ではなく、誤る可能性があるからこそ吟味されるべき賜物として理解しようとする。彼の目的もまた、聖書の最高権威を損なうことではないと明記している。
ここから、二人の議論が興味深くなる。
グルーデムは「聖書より低い次元の預言」というカテゴリーを設けるが、ロバートソンはそのカテゴリー自体が聖書的に成り立ちがたいと見る。預言が本当に神から与えられた啓示なら、どうしてそこに誤りが含まれうるのか。だから彼は、こうした概念が礼拝と信仰生活に不必要な不確実性を持ち込むと批判する。実際、本の後半のかなりの部分が、この主張に充てられている。
この点については、私は ロバートソンの議論により説得力を感じた。
たとえば、ある人がこう言ったとしよう。
「神があなたに、仕事を辞めなさいと言っておられるようです。ただ、私が聞き違えている可能性もあります」
いったいどこまでが神の言葉で、どこからが人間の誤りなのか。
こうしたやり方が繰り返されると、「神が語られた」という表現そのものが、奇妙に軽くなっていく。旧約の預言者たちにとって「主が語られた」という宣言は、命を懸けるほどの重みがあった。ところが現代の教会では、同じ表現のうしろに「もちろん間違っているかもしれません」が付く。これを本当に聖書の預言と同じカテゴリーと呼べるのかは、十分に問う価値がある。
ただし、中止説の側が陥りうる、反対方向の危険もあると思う。
超自然的な賜物を警戒するあまり、キリスト教を過度に知的な体系へ変えてしまうことだ。
聖霊は教理書の項目ではない。神は生きておられ、祈りに答え、人を悟らせ、ときには説明しがたい摂理をもって導かれる。聖霊の照らしと導きまで、すべて心理現象に還元してしまうなら、それもまた聖書的な信仰ではない。
だからこの本を正しく読むなら、「聖霊の働きを信じるか、信じないか」という構図で読んではいけないと思う。
本当の問いは、こうだ。
聖霊が今日働かれる仕方と、新しい啓示を受けるという主張は、同じことなのか。
ロバートソンの答えは、断固として「否」である。
最終的な言葉の重さ

この部分には、R・C・スプロールや ジョン・マッカーサー の賜物中止説と通じる手ざわりがある。ただ ロバートソンには、少し違う強みがある。彼は単に「使徒の時代が終わったから賜物も終わった」と宣言するにとどまらず、預言と異言を救済史の進行過程のなかに位置づける。だから『The Christ of the Covenants』を読んだ人なら、この論証の運び方はかなり馴染み深く感じられるだろう。
そして結局、私はこの本のタイトルへ戻ってくる。
The Final Word.
最終的な言葉。
ヘブル書1章は、神が昔、預言者たちを通していろいろな方法で語られたが、この終わりの日には御子を通して語られた、と宣言している。ロバートソンの神学は、実のところ、この一句を大きく展開したもののように見える。
キリスト教信仰の頂点は、新しい情報を受け取り続けることではない。
すでに来られたキリストを、より深く知ることにある。
この本を読んだあとは、「神よ、私に語ってください」という祈りも、少なからず変わらざるをえない。以前は、何か特別な感覚や応答を待つ意味合いが強かった。今は、こう祈るようになった。
「すでに語られたことを、私がちゃんと聞けるようにしてください」
もしかすると、これこそ ロバートソンがこの本で取り戻したかった信仰なのかもしれない。
カリスマ的な賜物に関心のある人にも勧めたいし、逆に、自分は確固たる中止説の立場だと思っている人にも勧めたい。前者は自らの体験を聖書で検証する機会を得られるし、後者はなぜ中止説を信じるのかを、より聖書神学的に整理できる。
何より「神が私に語られた」という言葉を頻繁に使う人は、一度この本の前で立ち止まってみる必要がある。
その言葉はキリスト教において、あまりに重い言葉だからだ。
そして ロバートソンが最後まで手放さない答えは、単純だ。
絶えず新しい言葉を探し求める前に、すでに与えられた言葉を見よ、ということ。神はご自分の御子を送られ、キリストの人格とみわざを、聖霊の霊感によって記された聖書のうちに保存された。
だから教会が待つべきものは、より新しい啓示ではなく、すでに与えられた最終的な言葉を、より深く聞くことなのかもしれない。
キリストこそ、神の最終的な言葉である。
読み終えると、『The Final Word』というタイトルが、最初よりはるかに重く感じられる。
