聖書はどのように読むべきか。
常に疑問だった。
どうすれば聖書を正しく解釈し、正しく読むことができるのか。私は長いあいだ、この問いを抱えてきた。解釈学の本を一冊読みたいと思って、手にしたのがヴァークラーの本だった。
この本は、聖書解釈のいちばん基本的で、いちばん大事なところを、ていねいに語ってくれる。文法・文脈・歴史・文化という四つの面から聖書を正しく解釈する原理が、平易に整理されていて、本当に助けになった。
この本を読んでからは、聖書を読み違えることが確実に減った。
聖書を長く読むからといって、必ずしも聖書を正しく読むようになるわけではない。むしろ、長く読むほど、自分がすでに慣れ親しんだ解釈を、本文そのものの意味だと勘違いする危険が増してくる。ヘンリー・A・ヴァークラーの『Hermeneutics: Principles and Processes of Biblical Interpretation』を読みながら、最も頻繁に抱いた思いがまさにこれだった。

この本は1981年に初めて出版されて以来、何度も改訂されてきた聖書解釈学入門書だ。最近の版では、カレリン・ガーバー・アヤヨが共著者として参加し、現代解釈学の議論もいっそう補われている。専門的な解釈理論を扱う本だが、その目的は意外にも現実的だ。牧師や神学生だけのための哲学的な解釈学書というより、一般の読者が聖書本文の意味をより正確に読み取るための訓練を積む、教科書に近い一冊だ。著者たちは、歴史・文化的背景、文脈、語彙と文法、文学的ジャンル、神学的分析、他の解釈者との比較、そして実際の適用へと至るプロセスを、体系的に示している。
最初、このような本を読むことは少し負担に感じるかもしれない。聖書は神のみことばなのに、ただ信仰をもって読めばいいのに、どうしてこんなに複雑な方法論が必要なのか——そう思うかもしれない。私も、以前は解釈学を神学校で試験を受けるために習う科目くらいに考えていたことがある。
しかし、聖書研究を長くしてみると、むしろ逆だという思いが湧き出てくる。
解釈学が必要な理由は、聖書が難しいからというより、自分が非常に簡単に自分の考えを聖書の中に投影してしまうからだ。
私たちは本文を読む瞬間、すでに解釈しているのだ。自分が生きてきた環境、教会の伝統、神学的立場、性格、経験をもって、みことばを眺めている。何の前提もなく純粋に本文だけを読む人は、実は存在しない。問題なのは、前提を持っているという事実そのものではなく、自分が持っている前提を聖書の意図だと勘違いすることだ。
ヴァークラーが繰り返し強調する核心もここにある。聖書の意味を知りたいなら、まず著者が当時の読者に何を伝えようとしたのかを問わなければならないということだ。
この本を読んで記憶しておきたい内容を、自分のやり方で圧縮すると、こんな文章になる。
「本文が今日、自分に何を意味するのかを問う前に、まず、当時、彼らに何を意味したのかを問わなければならない。」
「文脈を離れた節は、たやすく、自分が聞きたい言葉を語ってくれる節になってしまう。」
「良い適用は良い解釈から生まれる。」
「聖書を霊的に読むということは、文法と歴史を無視するという意味ではない。」
「解釈者の最大の危険は、聖書から自分の考えを発見し、それを神の意志だと呼ぶことだ。」
厳密に言えば、これらは本文をそのまま引き写したものというより、本全体から自分が掴んだ原則を、覚えやすいように整理した表現だ。しかし、実際に聖書を読むとき、この数文だけ記憶していても、かなり多くの誤りを避けることができる。
例えば、ピリピ書4章13節の「私は、私を強くしてくださる方によって、すべてのことができるのです」というみことばを考えてみよう。
この節だけを取り出すと、望みの大学に受かり、事業に成功し、難しい目標も信仰さえあれば達成できる——そういう意味に聞こえる。実際にそのように使われることも多い。

しかし、文脈を読むと、パウロは成功の可能性を語っていない。豊かなときもあり、乏しいときもあり、満ち足りることも、飢えることも経験したと述べたうえで、どのような状況にあっても、キリストの中にあって耐え抜くことができると告白している。
文脈ひとつを見ても、メッセージが変わる。
「何でも成功させることができる」ではなく
「どのような形であっても、キリストの中で生きていくことができる」
に、はるかに近い。
この違いが解釈学の必要性をよく示している。
本で特に有益だった部分は、歴史的・文化的背景を強調する箇所だった。私たちは21世紀の日本人だ。しかし、聖書は古代イスラエル、ユダヤ社会、ヘレニズム文化、ローマ帝国という、全く違う世界で記された。
イエスがサマリア人の女と対話されたという話も、当時のユダヤ人とサマリア人の長い対立を知らなければ、単なる伝道の話として読める。善きサマリア人のたとえも同じだ。今日、私たちにとって「サマリア人」はすでに親切な人を意味する言葉のようになってしまった。しかし、イエスの聴衆にとって、サマリア人は決してそのように安心できる言葉ではなかった。
背景を知った瞬間、たとえの鋭さが蘇る。

だから、歴史研究は聖書の霊的な意味を弱めるものではない。むしろ、本来の衝撃を回復させてくれるのだ。
文法と語彙分析の部分も重要だ。聖書原語を勉強しながら、一方では大きな助けを受けたが、同時に原語研究もまた別の罠になり得ると感じた。ギリシャ語の単語一つの可能な意味を辞書でいくつか見つけて、その意味をすべて一つの節に投入する方法だ。
しかし、単語の意味は辞書ではなく、文脈が決定する。
日本語の「目」という言葉も、人間の目、網の目、台風の目、はかりの目盛りと、文脈によってまるで違う意味になる。しかし、もし「『目』には視覚器官・編み目・目盛りという意味があるのだから、この一文にもそのすべてが含まれている」と言い出したら、それはおかしな解釈になるだろう。
聖書の原語も同じだ。

この部分は、説教を聞いたり、神学書を読んだりするときにも役立つ。「ギリシャ語の原語には、実は驚くべき意味があります」という言葉が、いつも驚くべき真理を保証するとは限らない。むしろ、平凡な文法と文脈の方がより正確なことが多い。
ジャンルを区別する部分も、この本の重要な長所だ。
詩篇をローマ書のように読むことはできず、箴言を契約的約束として受け入れてもいけない。黙示文学の象徴を歴史書の記述方法と同じように扱うこともできない。
特に箴言を読むときに、この問題がよく生じる。
「子どもに正しい道を教えよ。そうすれば、年をとっても、それから離れない。」
このみことばを法的保証のように理解すれば、信仰のうちに子どもを育てたのに子どもが教会を去った親は、途方もない罪悪感に陥りかねない。しかし、箴言は人生で一般的に機能する神の知恵を教えるジャンルであって、すべての状況で例外なく成就する契約文書ではないのだ。
ジャンルを理解するだけで、牧会的に不必要な傷を減らすことができる。

一方、この本を読みながら、少し疑問が生じる部分もあった。
ヴァークラーの方法論は、かなり秩序だっている。歴史的背景を調査し、文脈を観察し、語彙と文法を分析し、神学を検討した後に応用へと移る。聖書研究を訓練するにはとても効果的だ。しかし、実際に人間が聖書を読むプロセスが、このように機械的に順序立てて進むのかどうかは、少し別の問題だ。
私たちはすでに何らかの神学的伝統の中で本文を読んでいるのだ。
改革派の人がローマ書を読む読み方と、カトリックの神学者が読む読み方には、またディスペンセーション主義者がヨハネの黙示録を読む見方と、契約神学者が見る視点には、出発点から違いがある。
そのため、「正しい方法さえ使えば、誰もが同じ結論に達する」と考えるなら、あまりに楽観的かもしれない。
ここで私は、アンソニー・ティスルトン(Anthony Thiselton)やケヴィン・ヴァンフーザー(Kevin Vanhoozer)のような現代の解釈学者の議論が補完的に必要だと感じる。ヴァークラーが「本文をどのように正確に分析するか」をよく教えるなら、現代解釈学は「解釈する自分自身は、一体どの程度客観的なのか」という問いにもっと深く掘り下げている。
それでも、私はヴァークラーの方向にかなり同意している。
特に今日では、より一層そうだ。
最近の聖書黙想を見ると、本文そのものより「このみことばを読んで、自分がどのような感情を受けたか」が優先されることが多い。もちろん、聖書は個人に語りかけられた神のみことばであり、感動も重要だ。しかし、感動が意味を創造するわけではない。
「今日このみことばを読んで、神が自分にこのような思いを与えてくださった。」
この表現は慎重であるべきだ。
本文が語っていないことまで、本文を通して神が語られたことにしてはならない。
この本を読んだ後、私の聖書読みで実際に変えた習慣が一つある。
以前は、一つの節が目に入ると、すぐに黙想に入ることが多かった。今は、少なくとも前後の段落をまず読もうとする。可能なら、一章全体を読み、手紙なら、なぜこの手紙が記されたのかをまず考える。
驚くことに、それだけでも解釈がかなり異なる。
そして、適用を少し延期するようになった。
「このみことばが自分に何を語りかけるのか」
という問いを即座に投げかけるのではなく、
「パウロはなぜこう語ったのか」
「最初この手紙を受け取った人たちは、どのように理解したのか」
「前の段落とどのような関係があるのか」
からまず問う。
最初は聖書読みが遅くなるように感じた。しかし、時間が経つにつれ、むしろより深まったのだ。
ジョン・ストットの『Understanding the Bible(聖書を理解する)』のような本が聖書研究の実際的な喜びを教えてくれるなら、ゴードン・フィーとダグラス・スチュアートの『聖書を正しく読むために(How to Read the Bible for All Its Worth)』は、ジャンル別聖書読みにかなりの助けを与えてくれる。ヴァークラーの『Hermeneutics』は、そのなかではいちばん教科書的で、体系的だ。
一方、ハンス=ゲオルク・ガダマーの哲学的解釈学と比べると、ほぼ異なる世界のように感じられる。ガダマーがテキストと読者の間で起きる「理解」そのものを探求するなら、ヴァークラーははるかに牧会的な問いを立てている。
「では、聖書をどのように読むべきなのか」
私は、この現実的な態度が好きだった。
解釈学を勉強していると、ある瞬間、聖書より解釈学者がより重要になってしまう奇妙な状況が生じることもある。ヴァークラーは、少なくとも読者を再び本文の前へ向かわせてくれる。
結局、この本が教えるのは技術だけではない。
謙虚さだ。
聖書の前で自分が間違っている可能性があることを認める態度だ。
自分が幼い頃から聞いてきた解釈が間違っていることもあり得るし、尊敬する牧師の説教が本文の意味とずれていることもあるし、自分がとても感動した黙想が、実は本文とは関係のない考えかもしれない。
この可能性を認める者こそが、むしろ聖書を真摯に扱う者だと思う。
聖書を愛することは、自分が望む言葉を聖書から見つけ出すことではない。
聖書が自分が聞きたくない言葉を語るときにも、その言葉を聞こうとすることなのだ。
だから、『Hermeneutics』は神学生にだけ薦めたい本ではない。説教を準備する人はもちろん、聖書研究を指導する人、毎日黙想する人、特に「聖書にこう書いてある」という言葉をよく口にする人に、むしろ薦めたい。
読みやすい本だとは言い難い。ところどころ教科書のように無味乾燥で、繰り返しが多く感じられる。しかし、一度きちんと学んでしまえば、そのあとの聖書の読み方そのものが変わる可能性は大きい。
この本の核心を一文で表現するなら、こう言いたい。
聖書を重んじるということは、聖書に都合の良い意味を付与することではなく、聖書が実際に語っていることを聞こうとする努力なのだ。
そして、もしかすると、これがすべての解釈学の出発点であるかもしれない。
みことばの前で自分が先に語るのではなく、
本文にまず語らせること。
『Hermeneutics』は、まさにその訓練をさせてくれる本だ。
