R・C・スプロールの本を読んだ。
この人の文章はいつも考えさせる。そして必ず何かを教えてくれる。だから私は彼の論の運び方が好きだし、哲学の素養が地の文からにじみ出てくるたびに驚かされる。
信仰とは何だろう。私たちは「信仰」という言葉をやたらと口にする。それなのに、それが何なのかを正面から考えたことがない——そう気づいて、この薄い本を手に取った。

表紙がもう挑発的だ。目隠しをされた横顔。信仰とは目をふさいで飛び込むことだ、と世間が思っている図そのものを表紙に置いて、中身でそれをひっくり返していく。
70ページで、核心だけを突いてくる
『What Is Faith?』は2010年に出た「Crucial Questions」シリーズの一冊で、通し番号は8。全部で70ページに届かない。それでも扱う問いは、キリスト教信仰のど真ん中を刺してくる。
スプロールはヘブル書11章を軸に、信仰と望みの関係、救う信仰とは何か、理性と信仰はぶつかるのか、神の言葉と確信はどうつながるのか、という順に進めていく。章立ても「希望のビジョン」「信仰の実例」「神の賜物」「御言葉によって強められる」という流れで、迷子にならない。
信仰生活が長くなると、「信仰」という語を安く使うようになる。「信仰をもって生きなきゃ」「信仰が足りないからだよ」「信じて待とう」。口ではすらすら出てくるのに、では信仰とは何かと説明を求められると、言葉が止まる。私もそうだった。ある程度わかっているつもりでいたのに、いざ定義しようとすると、輪郭がぼやけていることに気づかされた。
まず取り除かれる誤解
スプロールが最初に片づけるのは、信仰を「根拠のない楽観」と取り違える態度だ。
聖書の言う信仰は、「きっとうまくいく」と自分を説得する前向きな心持ちではない。ましてや、理性を捨てて暗闇へ身を投げる宗教的な冒険でもない。信仰にははっきりとした対象がある。しかもその対象は、漠然とした超越的な力ではなく、語り、約束された神である。

ここでヘブル書11章1節が効いてくる。「信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」。信仰は「望むこと」と結びついているのだが、スプロールは現代人の言う希望と、聖書の言う望みを丁寧に切り分ける。
私たちが「明日は雨が降らないでほしい」「この件がうまく運んでほしい」と言うときの希望には、当然ながら不確かさが含まれている。彼はここで自分の話を持ち出してくる。ピッツバーグ・スティーラーズの筋金入りのファンで、毎回勝ってほしいと願っているが、当然のように負けることもある、と。神学書の真ん中にひいきチームの話が出てくるのがなんだかおかしくて、しばらく笑ってしまった。

しかし聖書の望みの土台は、人間の期待ではなく神の約束にある。だからスプロールはこう書く。
The promises of God for tomorrow are the anchor for believers today.
「明日へ向けた神の約束は、今日を生きる信者の錨だ」くらいに訳せるだろうか。錨は船が当てもなく流されるのを防ぐもの、という説明のあとにこの一文が置かれていて、思わず線を引いた。
この文がずっと残っている。信仰とは、これから何も起きないと請け合う能力ではない。むしろ、何が起きるかわからないままで、神の人格そのものに寄りかかることだ。アブラハムは行き先の地図を全部もらってから出発したわけではないし、モーセも未来を計算し終えてから従ったわけではない。信仰の人々に共通していたのは、未来についての完璧な情報ではなく、語った方への信頼だった。
「信じる」は理性の放棄ではない
もうひとつ、この本で意外なほど紙幅が割かれているのが、理性との関係だ。

科学と宗教の対立は理性と非理性の対立だ、と多くの人が思っている。だがスプロールは、聖書は「信仰の飛躍(leap of faith)」や「知性の磔(crucifixion of the intellect)」によって創造を信じよとは命じていない、と言い切る。アウグスティヌスもトマス・アクィナスも、信仰と理性を区別はしたが、信仰が受け入れるものは決して不合理ではないと主張した——この行に私は一番太く線を引いた。
続く数ページには、ビッグバンをめぐるある学者とのやりとりが出てくる。

爆発の前には何があったのか。永遠に凝縮され静止していた一点が、なぜ突然爆発すると決めたのか。「私はそれを動かしたのが誰なのかを知りたい。その慣性を乱した外の力が何なのかを知りたい」。相手は「そこへは行けないし、行く必要もない」と答える。それに対してスプロールは、ビッグバンがひとりでに起きたと前提するなら、それはもう科学ではなく魔術の話だ、と返す。
このやりとりが痛快なのは、彼が「だから信じろ」と言っていないところだ。誰も創造の目撃者ではなかった。だから見えるものからの推論で遡るか、物質宇宙に先立つ啓示に聞くか、いずれかしかない——そう整理するだけで、判断を読み手に返してくる。
知識・同意・信頼
スプロールの信仰理解を神学的に広げると、宗教改革者たちが好んだ三つの言葉が出てくる。notitia、assensus、fiducia。知識、同意、信頼だ。
信仰にはまず、知るべき内容がある。イエスが誰なのか、十字架が何なのか、復活が何を意味するのかをまったく知らないまま「キリストを信じている」と言うのは難しい。これが notitia。次に、それが真実だと認めなければならない。これが assensus。だが、ここまででもまだ救う信仰ではない。ヤコブ書が言うように、悪霊でさえ神についての事実を知っていて、それが真実だと認めている。
決定的なのは fiducia、つまり人格的な信頼と委託だ。スプロールにとって信仰は、「イエスが救い主だという命題は真である」と認めるところでは終わらない。「だから私は、自分自身ではなくキリストに自分を預ける」というところまで行かなければならない。
幼子のように、という比喩
この委ねについて、本の中ほどでとても具体的な絵が出てくる。

幼いころ、私たちは何が安全で何が危険かをほとんど知らなかった。それでも父や母の手に自分の手を差し入れ、通りを渡っていった。赤信号と青信号の違いさえわかっていなかったのに、親が止まれば止まり、親が縁石を降りれば一緒に降りた。保護のもとにあったから信頼したのだ。
スプロールはここで、子どもの信頼を裏切る親も現実にはいると、わざわざ書き添える。そのうえで、それでも子が親を信頼するのは大半の場合において不合理ではない、と続ける。この慎重さがいい。きれいな比喩をきれいなまま使わず、破れる場合を認めたうえで先へ進む。「幼子のような信仰とは、自分を子と見なしてくださる神の人格への確信だ」——結論はそこへ着地する。
読みながら、自分の信仰を振り返らずにいられなかった。教理を学んでいると、いつのまにか「キリストを知ること」と「キリストについて多く知っていること」を取り違えてしまう。義認と聖化を、贖罪と契約を説明できるからといって、その人の心がキリストに寄りかかっているとは限らない。神学的な知識は大切だ。スプロールほど知性を重んじた神学者もそう多くない。だが彼はまさにそれゆえに、知識と信仰を同じものにしない。
私が線を引くとしたら
この本の核を覚えておくために、私の言葉で圧縮しておく。最初の一行を除けば、直訳の引用というより論旨の要約だ。
- 「明日へ向けた神の約束は、今日を生きる信者の錨だ」
- 信仰とは、見えないものを根拠なく信じることではなく、真実である神の約束を握ることだ
- キリストについて知ることと、キリストを信頼することは別の行為だ
- 救う信仰は、知識と同意を越えて、自分自身を委ねるところまで進む
- 信仰の強さより、その信仰が何をつかんでいるかのほうが決定的だ
とりわけ最後の一点が大事だと思っている。現代の教会では、信仰そのものを一種の能力のように語ることがある。信仰が大きければ事は成り、弱ければ失敗する、という言い方だ。そうなると、いつのまにか神よりも「自分の信仰の大きさ」のほうに関心が向いてしまう。
だが改革派が語る信仰は、手に似ている。手が救いを作り出すのではない。手はキリストを受け取るだけだ。空っぽの手であっても、その手にキリストがおられるから救いは完全なのである。
それでも残った引っかかり
とはいえ、読みながら引っかかった点もある。
スプロールの説明はあまりに明晰で、そのせいで実際の信仰生活の複雑さが少し単純に見えてしまうときがある。現実の信者は、notitia–assensus–fiducia を教科書のように順番どおり経験しない。ある日は神を深く信頼していたのに、翌日には恐れに飲まれる。「あなたはキリストです」と告白したペテロが、いくらも経たないうちに主の行く道を遮ったように。
だから私は、この本の言う「信頼」を、心理的な確信の強度として読んではいけないと思っている。信仰が強いとは、疑いがまったくないという意味ではない。むしろ、疑いながらも誰のところへ行くのか、という問題だ。「私は少しも揺らがない」が信仰なのではなく、揺れているその瞬間にもう一度キリストへ戻ってくることが信仰でありうる。マルコ福音書の「信じます。不信仰な私をお助けください」という叫びが現実的に響くのは、そのためだ。
生活へ持ち帰るなら
この本を日々に当てはめるとしたら、「信仰をもっと作り出そうと力む」より先に、約束した方をもっと見つめる練習だと思う。
不安なことが起きたとき、「どうして自分はこんなに信仰がないんだろう」と自分の心をのぞき込み続けると、不安はかえって膨らむ。代わりに、神はどういう方か、その方は何を約束されたか、キリストはすでに何を成し遂げられたか——そちらを問い直すほうがいい。信仰は自分を凝視することで育つのではなく、信仰の対象を見つめることで深まる。
メイチェンの同名書と並べて
J・G・メイチェンにも『What Is Faith?』という本があり、読み比べると違いが面白い。
メイチェンは自由主義神学と格闘しながら、キリスト教信仰には必ず客観的な真理内容がなければならない、という点を論争的に押し出す。一方スプロールは、その伝統を受け継ぎつつ、ずっと牧会的に語る。メイチェンが「何を信じるのか」の重要性を力強く弁護するとすれば、スプロールはそこから一歩進んで、「その真理を知っているあなたは、本当にキリストに自分を委ねているのか」と問うてくる感じがある。二冊を並べて読むと、かなり相性がいい。
残る三つの問い
結局この本が投げてくる問いは、難しくはないが、かわすのも難しい。
私は神が存在すると信じているか。 もっと深く、私は神の言葉が真実だと信じているか。 そして最後に、私は本当にその神に自分自身を委ねているか。
三つ目の前で、本の重さが変わる。
神学を学び始めた人にも勧めたいが、むしろ信仰生活が長い人にこそ読んでほしい。「信仰」という単語に慣れすぎて意味を考えなくなった人、教理は豊かに知っているが自分の信頼がどこに置かれているか点検したい人、不安と疑いのせいで「自分は信仰のない人間なのか」と悩んでいる人には、とりわけよく効くはずだ。
薄い本だが、核心は決して軽くない。スプロールは信仰を、人間の内側から湧き出る宗教的な勇気として説明しない。信仰とは、神の約束を聞き、それが真実だと受け入れ、ついにはその約束の主であるキリストに自分を委ねることだ。
だからこの本を閉じたあと、「私の信仰はどれくらい大きいか」よりも大切な問いがひとつ残る。
私は誰を、何を信じているのか。
キリスト教信仰では、結局すべてがその問いへ戻っていくのだと思う。
