イエス・キリストとは誰か。こう問われ続けてきたが、いつも足りない感じがしていた。
そんな中、Feskoのこの本は小さいながらも中身が濃く、聖書に深く根ざした良い本だった。J. V. Feskoの『Who Is Jesus?: Knowing Christ through His “I Am” Sayings』は2016年にReformation Heritage Booksから出版された、短いキリスト論である。分量は多くないが、問いはキリスト教信仰の中心を突き刺す。**「イエスは誰ですか?」**この問いに対し、Feskoは哲学的推論や現代人のイエス像で答えない。ヨハネ福音書に登場するイエスの「わたしは…である」という自己宣言をたどりながら、イエスがご自身を誰だと明かされたのかを検証している。本書は「大いなるわたしは(I AM)」「いのちのパン」「世の光」「門と良い羊飼い」「復活といのち」「道であり、真理であり、いのち」「真のぶどうの木」を順番に扱っている。

この本を読んで最初に感じたのは、Feskoがイエスをあまりによく知っていると思い込むクリスチャンの錯覚を打ち壊すということだった。
教会に長く通っていると、「イエスは誰ですか」という問いは簡単に見える。
神の子だ。
救い主だ。
キリストだ。
私たちは深く考えずにそう答える。しかしFeskoはもう一段階深く入る。
その言葉は実際に何を意味するのか。
イエスを神の子だと告白することと、イエスが本当に神であるという事実の前で生きることは、まったく別の問題だ。
Feskoが特に注目するのは、ヨハネ福音書のギリシャ語表現**ἐγώ εἰμι(エゴー・エイミー)「わたしは…である」**である。彼はこれらの表現を単なる比喩の集まりとして読まず、旧約聖書の背景と結びつける。特に出エジプト記の神の自己啓示、荒野のマナ、出エジプトを導いた光、羊飼いである主、いのちを与える神といった旧約のイメージがイエスのみことばの中に流れ込んでくると見ている。だからイエスの働きは旧約の約束と型と主題を身にまとって現れた働きだというのが、Feskoの重要な視点だ。
このことがこの小さな本をヨハネ福音書の黙想集とは別のものにしている。

例えば、イエスが「わたしはいのちのパンです」と言われたとき、私たちは容易に「イエスが私たちの魂を満たしてくださるという意味なんだ」程度に考える。
もちろん、誤った解釈ではない。
しかしFeskoは私たちを荒野へ連れていく。
イスラエルに食べ物がなかったとき、神はマナをお与えになった。しかしヨハネ福音書6章でイエスは、マナを与えるもう一人のモーセのように自分を紹介されない。むしろ自分が天から降ってきた真のパンだと宣言されている。
ここで福音の驚くべき転換が起こる。
人々はイエスに何かを得たいと思う。
問題が解決されることを望み、病気が治ることを望み、人生が楽になることを望む。
しかしイエスはこのようにおっしゃるのだ。
「わたしがあなたに何かを与えることが最も大切なのではない。わたしこそが、あなたに必要なものなのだ。」
この点が、いちばん強く心に残った。
信仰生活が長くなっても、神ご自身よりも、神からの贈り物のほうを求めてしまうことがあるからだ。
平安をください。
健康をください。
子どもたちを守ってください。
仕事と職場を助けてください。
祈りが答えられることを望む。
しかし万が一、神がそのすべてをくださらなくても、私は依然としてキリストを求めるだろうか。
『Who Is Jesus?』を読みながら、この問いから逃げられなかった。
本書の核心を、覚えておきたい言葉として自分なりにまとめると、次のようになる。
イエスはいのちのパンをお与えになる方である前に、ご自身がいのちのパンである方である。
イエスは道を教える教師ではなく、ご自身が神へ至る道であると宣言される。
イエスの奇跡は単なる力の誇示ではなく、ご自身が誰であるかを示す印である。
旧約聖書で神に属した名前とイメージが、イエスの中に再び現れる。
結局のところ、「イエスは誰ですか」という問いは「では私は、この方を誰だと信じるのか」という問いに変わる。
これらは本文をそのまま引き写したものではなく、Feskoの論旨を自分が覚えやすいようにまとめ直した言葉だ。

個人的に最も印象的だった宣言は、やはり「わたしは復活です。いのちです」というみことばである。
ラザロが死んだとき、マルタは終わりの日の復活を信じていた。神学的には正しい信仰だった。しかしイエスは復活に関する教義を説明するところで止まられない。
「わたしが復活です。」
この違いは非常に大きい。
キリスト教信仰の中心には、何らかの原理があるのではなく、人格がある。
救いについての理論を信じるのではなく、救い主であるキリストを信じる。
復活という出来事だけを信じるのではなく、復活といのちであるキリストを信じる。
真理についての哲学を受け入れるのではなく、「わたしが真理です」と言われるお一人にお会いする。
だからこそ、キリスト教が単なる宗教哲学になりえないのだ。
イエスは「わたしが良い道の一つを教えてあげましょう」とおっしゃらない。
「わたしが道です。」
「わたしが真理です。」
「わたしがいのちです。」
この宣言には、現代人が不快に感じるほどの排他性がある。
ここで私も本を読みながら問いが生じた。
果たしてヨハネ福音書のすべての「I AM」表現を出エジプト記3章の神の名前と直接結びつけることができるのか。
特に文法的に、ἐγώ εἰμιという表現自体が常に神の神的な名前を意味するとするなら、やや行き過ぎた解釈になりかねない。平凡な自己確認の表現として使われることもあるからだ。
だからすべての「わたしは…である」という文章を機械的に「イエスはすなわち主であるという直接の宣言」と見なすことには注意が必要だと思う。

しかしFeskoの強みは、一つの単語にすべてを託さないところにある。ヨハネ福音書全体の構造、イエスの奇跡、旧約のイメージ、イエスのみことばと行動を一緒に見ている。OPCの書評も同じく、七つの「わたしは」宣言を各々旧約の背景と結びつけてイエスの自己主張を示すことが、この本の特徴だと強調している。
そしてこの本を読んで私の人生に実際に適用してみたら、意外なことに最も難しい部分は神学ではなく、依存だった。
イエスが本当にいのちのパンなら、私は何で満腹しようとしているのか。
イエスが本当に世の光なら、重要な選択をするときに何を基準に判断しているのか。
イエスが本当に良い羊飼いなら、理由の分からない道へ導かれるときにも従えるか。
イエスが本当に復活といのちなら、死と失敗を、世の見方と同じように見なければならないのか。
イエスが本当に真のぶどうの木なら、実を結ぼうと力む前に、まずその方のうちにとどまっているだろうか。
こうして問い直すと、「I AM」宣言は急に教理問答から現実に降りてきた。

特に「わたしは真のぶどうの木です」というみことばは、昨今の自己啓発文化と正反対の方向を指していると感じた。
世は絶えず私に語りかけてくる。
もっと強くなれ。
もっと成長しろ。
もっと成し遂げろ。
あなたの可能性を証明しろ。
ところがイエスは、実を結べと先に言われず、わたしの中に留まりなさいとおっしゃる。
私はこれが福音と自己啓発の決定的な違いだと考える。
自己啓発の出発点は、私の潜在力だ。
福音の出発点はキリストだ。
自己啓発は「あなたには力がある」と言うが、福音は「あなたのいのちはキリストの中にある」と言う。
一見、福音が人間を弱くするように見える。しかし実際は逆だ。自分自身に人生全体を依存しなければならないという重い負担から、人々を自由にする。

R・C・スプロールのイエス・キリストについての小著と比べてみると、Feskoの特徴がより明確に見える。スプロールが神の聖さとキリストの人格を明快な教理的言語で説明することに卓越しているなら、Feskoのこの本はヨハネ福音書と旧約聖書を行き来しながら、イエスのみことばの背後に置かれた聖書神学的背景を示すことに強みがある。だから分量は短いが、聖書をもっと深く学びたい人にとって、意外なほど読みごたえがある。
何よりこの本は、イエスを単に「良い人」として留めていない。
すぐれた道徳の教師。
愛を教えた宗教的指導者。
抑圧された人々の側に立った革命家。
偉大な聖人。
今日でもイエスをこのように評価することは難しくない。
しかしヨハネ福音書が描くイエスは、それほど安全な人物ではない。
ご自身を、いのちのパンだと、世の光だと、良い羊飼いだと、復活といのちだと、道であり、真理であり、いのちだと、真のぶどうの木だと宣言される。Feskoの本は、まさにこれらの自己宣言を通じて、読者が「わたしが求めるイエス」ではなく聖書が証言するイエスを見つめるようにしている。
結局のところ、『Who Is Jesus?』が投げかける問いは、神学試験の問題ではない。
「イエスは誰ですか?」
そしてその次の問いがより重要だ。
「では私は、このイエスとどのような関係を結んで生きているのか?」
イエスが単なる偉大な教師なら、そのみことばの中から心に留まるものを選べばいい。
しかし本当に「わたしは…である」と宣言された方が、肉となってこの世に来られた神なら、話はまったく違う。
その時からイエスは、私の人生に助言を与える一人の人ではなく、私の人生全体の主となる。
だからこの本は、イエスについて初めて知りたい人にも良いが、むしろイエスをあまりにもよく知っていると思うクリスチャンに勧めたいのだ。
私はこの本を閉じながら、新しいイエスを発見したというより、あまりにも慣れ親しんで小さく作ってしまったイエスを、再び大きく見つめるようになった。
結局、キリスト教信仰の核心的な問いは複雑ではない。
イエスは誰ですか?
そして信仰のほとんどは、この問いにどう答えるかから始まる。
